2012年1月29日日曜日

写生

まつかになつて息止めてゐる寒椿 くろやぎ

だいぶ前になるが、ツイッターで歌人の斉藤斎藤さんが「写生とは何か」ということを囀っていて、とても面白いと思った。ついさっきそのことを思い出したのだが、大事なことなのでメモしておくことにした。たしかツイッターでお気に入りの★マークをつけておいたはずだと思って探しました。ありました。

【短歌は写生である・1】突然ですが、短歌入門をはじめます。短歌に興味のない方、短歌にくわしい方、ごめんなさい。二回目はあるかわかりませんが第一回、短歌は写生である。写生とは何か。読者が作者の身になって短歌を読む、という態度のことです。

【短歌は写生である・2】「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり/正岡子規」。有名な歌ですが、これと言って何も言ってません。花瓶に藤の花をさしたら垂れ下がったけど、短かったので、畳には届かなかったなあ。これだけです。どうしてこの歌が、よい歌だとされているのか。

【短歌は写生である・3】第一に、「藤の花が畳に届かなかった」という見え方をしているので、作者は畳の上(のふとん)に寝ているのだろう、と推理できます。立ってたり座ってたりしたら、花の先端が畳に届いてるかいないのか、多分わかりませんからね。

【短歌は写生である・4】第二に、「(いつもより)短いので届かなかった」と詠っているということは、短くない藤の花は畳に届いているのを、ふとんの上から作者はいつも見てきた、と推理できます。つまり作者は、ふとんの上にかなり長い時間いる人らしいと、わかります。実際、子規は病床にいました。

【短歌は写生である・5】つまり写生の歌とは、写真から逆算して、カメラマンの位置や個人情報を割り出すことができる歌です。藤の花がこのように見えているならば、作者は病気で寝ていたのではないかと推理し、病床の作者の身になって、藤の花を見る。これが写生の歌を読むときの、読者の作業です。

【短歌は写生である・6】いまの短歌では、子規のように明確な写生の歌をつくっている人は、そんなには多くありません。しかし今でも、読者が作者の身になって読むという、ひろい意味での「写生」は、結社や歌壇の主流を占めていると思います。

【短歌は写生である・7】「写生」とは、歌を読んで、ことばに妙な引っかかりを感じたら、その引っかかりから作者の位置や気持ちを逆算しようとする、読みの作法のことです。ことばが変なのは、作者が下手なのではなく、何か理由があるはずだと、いったん性善説(?)に立って読むのが写生です。

【短歌は写生である・おまけ】引っかかりをきれいに消した歌を結社の人が読むと、かえって下手に見えてしまいます。読者に親切すぎる歌には、作者の身になる手がかりがない。観光ガイドの写真は、観光地の魅力は伝わってきても、構図が整えられすぎていて、カメラマンの位置を逆算できないように。

これを読んでなるほどと思った。写生とはそういうゲームだったのかと理解した気分になった。なったわけだが、その一方で心の片隅に「ホンマかいな」という気持ちもあった。

その後しばらくして、ネットのどこか(たぶん週刊俳句だと思うが)で、

白菖蒲切っ先高き葉の奥に 村上鞆彦

という句があって、ああ葉っぱがあって白菖蒲がある、そういうもんやなあと思っていたら、どなたか(杉原祐之さんという伝統俳句の人だったとおもう)が「手前側の菖蒲は紫」と断言しているのを見て驚いた。ああ、これが斉藤さんの云う写生ということだったか、とフカク納得したのだった。自分なりに理解したところでは、作者の村上さんは自分の見たままをありのままに言葉で書き写しているわけではないらしい。作者とは別に架空の詠み主体を仮定したうえで、その詠み主体の視線が通った跡を規定する。その視線の通った一部の情報だけを曝して、読み手に対して視線の通った全体を復元してみよと謎かけしている、というようなことだと思う。「葉の奥に」というあたりに斉藤さんの云う「妙な引っかかり」が仕込んである。沢山咲いている菖蒲の花のうち、奥の方の白菖蒲だけを写生して、さあ全体の景色がわかるかと謎かけしているわけである。なるほど面白いゲームだ、と思う。が、その一方で自分でこのゲームに参加することはないだろうとも思ったことをおぼえている。

話はもう少し続くんだけれども、最近見つけたこの句:

雪の音絶えて深雪となりゐたり 橋本冬樹

を読んで、おおこれも写生だと思ったわけである。俳句の人には多分当たり前のことなんだろうけれども、この句も写生の句なんだろうと思う。雪の音が途絶えるというのは普通は雪が止むことを示すのだろうと思うが、この句ではその後が「深雪となりゐたり」と続く。これが「妙な引っかかり」。その引っかかりを手がかりに解読してみる。昨日からずっと雪がはげしく降り続いていて、床につく頃にも戸外ではしんしんと雪の降る音がしていた。それが夜明け頃にふと目が覚めるとその音がしない。全くの無音。一晩中降り続いた雪はもう軒先近くまで降りつもっていて、もはや家の中には雪の音が届かなくなっていた。しんしんと雪の降る密やかな音を詠んだ句は多いが、その音さえも届かない無音の世界を詠んでいる、ということになると思う。

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