2013年3月17日日曜日

ロボット


ロボットのやうに向き変へ兜虫 伊佐新吉

ロボットにもの言ふ迂闊夜の長し 笠原ひろむ

更衣なきロボットと住む未来 荒野桂子

日永かな動いてロボットだとわかる 宮崎斗士

十六夜やもしもロボットなら笑ふ 宮本佳世乃

花冷えやロボットころんで起きあがる 遊佐光子


ツイッターでどなたかが尾崎放哉のボットがほしいといわれるので作ったことがある。ボットというのは英語のbotで、もとはrobotから来ている。robotだと2音節だが、英語の感覚では可愛らしいもの、愛着深いものは1音節の語が相応しいらしくて、cat, dog, mouse, cow, pig, snake……皆そう、それでbotになっているのだろうと思う。その後、放哉のボットは増えて、いまは6,7人の放哉が句を囀っている。僕のボットは時々うごかなくなる。そのたびに起動しなおすのだが、あるとき再起動するのが面倒くさくなって手動で動かしてみた。手動でボットを動かす、というとえらそうだが、要は自分で放哉の句を選んで書き込むのである。1日に何句も書くのは面倒なので、1句か2句、コーヒーで一服のついでに書く。

そうしてみると面白いもので、句集をよく読むようになる。自動のときは季節もお構いなしでコンピュータが発生する乱数にしたがって適当な句を囀らせていたのだが、自分で選ぶとなるとそれもどうかと思う。季節に合った句をとか、昨日、一昨日の句との並び具合がどうだとか、気にするようになる。そんなこんなで3ヶ月ほど続いているが、おかげで随分と放哉の句に親しみを覚えるようになった。放哉だけではつまらないような気がしてきて、三鬼のボット(これは前に作って放置してあった)やら耕衣のボットやらのお世話をするようになった。実際にしていることは句集から句を選んで書き込むというだけのことなのだが、ボットという名前が付いているのでなんだか自分がロボットになったような気にもなる。

だいたいが日本人というのはヒト型ロボットが好きで、それは鉄腕アトムの時代からかと思う。いや、そもそも日本的アニミズムの世界では一木一草に神が宿っているのだし、道ばたの石ころにも命を見てとるのである。当然の成り行きとして、鉄と何かからできているロボットに魂を見出してしまうことになる。 伊佐さん、笠原さんは多分、まだロボットをアチラ側の存在と見ているのだろう。西洋文明に染まってるね(笑)。荒野さんの句は同じようにも読めるのだが、ひょっとすると不死のロボットと暮らす未来を待ち焦がれているのかもしれない。宮崎さん、宮本さん、ひそかにロボットへの愛着が芽生えていますね。そして遊佐さんのまなざし、嗚呼!


キューブリックが構想したが果たせず、スピルバーグが監督することになったA.I.のラスト。ロボットは日本人だけのものではないのだ。

2013年3月9日土曜日

死後


冬日くまなし便器は死後のつややかさ 高野ムツオ

死後歩く道あるならば麦の秋 高野ムツオ

わが死後を書けばかならず春怒濤 寺山修司

粽結う死後の長さを思いつつ 宇多喜代子

母の死後わが死後も夏娼婦立つ 鈴木六林男

わが死後の植物図鑑きつと雨 大西泰世

死後涼し光も射さず蝉も鳴かず 野見山朱鳥

死後も目はある筈雪を見てゐたり 永田耕一郎

生前も死後もつめたき帚の柄 飯田龍太


コメント欄で何か書いていて思い出した死後体験のことなど書いてみる。

4年ほど前にツイッターを始めて、それがきっかけで俳句を作るようになった。次第にお知り合いも増えて、俳句もどきをつくってはタイムラインに放流するのが楽しくなった。しかし、そのうちにどうも何かがちがうように感じられてきた。説明するのは難しいのだが、実生活に喩えると、いつも大勢の人がいる中で暮らしているような落ちつかなさ、とでもいうか。多少内向的というか、人とわいわいするのが嫌いなわけではないが、一人遊びもせずにはいられないようなところがあるからかもしれない。実生活上でもいろいろと余裕がなくなることが重なった。それである日、ツイッターのアカウントを消した。

100人以上の人とタイムライン上で生活していた自分が、自分だけが突然消えた。それで、その時に、これは死後ではないかと思ったのである。アカウント名を思い出せるかつてのフォロイーの書き込みをこっそり覗いてみたりすると、死後の魂が天井あたりから自分の遺体やその周りの親族の様子を眺めているような感覚になったりもした。

まあそういう死後の世界にも慣れたのだが、一つ困ったことがあった。ツイッターの入力枠のなかで十七音を並べてはタイムラインに放流する、という以外のやりかたでは、俳句が非常に作り難いということに気が付いたのである。単に、ツイッターで俳句を始めたからというのではなく、自分にとってツイッターという道具が俳句にぴったり嵌ったからこそ俳句を作り始めた、ということなのだろう。ノートに書くのも試してみたが、全然だめ。頭が動かない。言葉が出てこない。発想が飛ばない。一句書いてはエイっと決別する思い切りとか、誰かに見られるという緊張感が必要なのだと思う。というわけでひっそりとツイッターを再開したというわけである。ふう。

2013年3月3日日曜日

雛祭り


雛飾りひとつちひさな息をして

次の世もまた次の世も雛かな

千年の雨降らすなり雛の間

恋するも糞まるも雛壇のうへ

末世、末世、灯りをつけて雛祭り

仕舞はれる雛は息を止めたまま

雛祭りである。と言っても家に雛飾りがあるわけではない。子どもの頃は雛人形が薄気味悪くて、妹が中学くらいになって雛飾りをしなくなってホッとした。

雛祭りの句は沢山あるのですこしだけ。選び方が偏っていることは自覚している。行方さんの執着ぶりが楽しい。


恥しきこと聞きたりし雛かな 行方克己

雛なにか言ふ見しことを見ぬことを

雛の間をしばらく灯し置きにけり

恐ろしきことをたくらみ真夜の雛

雛の間をかくれんぼうの鬼覗く

雛まつり馬臭をりをり漂ひ来 波多野爽波

正気とは思へぬ顔の雛かな 大木あまり

焚かるるも男雛は正座くづさざり 安藤孝助