2013年3月9日土曜日
死後
冬日くまなし便器は死後のつややかさ 高野ムツオ
死後歩く道あるならば麦の秋 高野ムツオ
わが死後を書けばかならず春怒濤 寺山修司
粽結う死後の長さを思いつつ 宇多喜代子
母の死後わが死後も夏娼婦立つ 鈴木六林男
わが死後の植物図鑑きつと雨 大西泰世
死後涼し光も射さず蝉も鳴かず 野見山朱鳥
死後も目はある筈雪を見てゐたり 永田耕一郎
生前も死後もつめたき帚の柄 飯田龍太
コメント欄で何か書いていて思い出した死後体験のことなど書いてみる。
4年ほど前にツイッターを始めて、それがきっかけで俳句を作るようになった。次第にお知り合いも増えて、俳句もどきをつくってはタイムラインに放流するのが楽しくなった。しかし、そのうちにどうも何かがちがうように感じられてきた。説明するのは難しいのだが、実生活に喩えると、いつも大勢の人がいる中で暮らしているような落ちつかなさ、とでもいうか。多少内向的というか、人とわいわいするのが嫌いなわけではないが、一人遊びもせずにはいられないようなところがあるからかもしれない。実生活上でもいろいろと余裕がなくなることが重なった。それである日、ツイッターのアカウントを消した。
100人以上の人とタイムライン上で生活していた自分が、自分だけが突然消えた。それで、その時に、これは死後ではないかと思ったのである。アカウント名を思い出せるかつてのフォロイーの書き込みをこっそり覗いてみたりすると、死後の魂が天井あたりから自分の遺体やその周りの親族の様子を眺めているような感覚になったりもした。
まあそういう死後の世界にも慣れたのだが、一つ困ったことがあった。ツイッターの入力枠のなかで十七音を並べてはタイムラインに放流する、という以外のやりかたでは、俳句が非常に作り難いということに気が付いたのである。単に、ツイッターで俳句を始めたからというのではなく、自分にとってツイッターという道具が俳句にぴったり嵌ったからこそ俳句を作り始めた、ということなのだろう。ノートに書くのも試してみたが、全然だめ。頭が動かない。言葉が出てこない。発想が飛ばない。一句書いてはエイっと決別する思い切りとか、誰かに見られるという緊張感が必要なのだと思う。というわけでひっそりとツイッターを再開したというわけである。ふう。
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わたしもtwitterでしか俳句が作れません。あのえいやあ感が絶対に必要。
返信削除句会に参加するようになって、なかなか面白いのだけど、もしネットに
出したものはダメといわれたら句会の方を辞めると思う。
野見山朱鳥さん、小さい頃お会いしたことありますよ。
人生最初の俳人との遭遇。繊細そうな、でも強そうな方でした。
(フォローしたらご迷惑かな?)
ああ、砂女さんもエイヤア派でしたか。
返信削除ツイッターで最初のうちは俳句を書いてた方々が、いつのまにか俳句をだされなくなって、ああ句会に出すのかなあなどと思っていました。その場合は句会の出句でエイヤアするんでしょうけどね、世間からは見えないのでちょっとだけ残念。(フォローはもちろんしていただいて結構です<エラソーですみません。前回の反省もあって、なるべく人目を気にしないで行儀悪くしようなぞと思ってますが、、、)