2012年2月29日水曜日

時空



わたくしの時空も歪む二ン月よ

スイッチを切れば昨日に帰れるか

頭蓋から噴き出す黒い水また水

ワタツミは殺して土に埋めましょう

懐かしい時への回路壊れたる

スイッチを切れば明日はもう来ない

うなばらに季節ぞ生まれかつ消ゆる

2012年2月26日日曜日

踏む




ちょっと前に、小説が読めなくなった話を書きかけた。その続きではないが続きでもあるような、最近読んだ小説の話。

小説読めない症を患っていた頃だと思うが、東大駒場で物理の学位を取った人が小説を書いてなんかの賞をもらったとかいうような話を聞いた(いま確認したが、貰ったのではなくて候補になったくらいのころだと思う)。SFっぽい小説は嫌いではないのだが、物理学者クズレ(失礼!)が小説に転進、というあたりにどうもウロンなものを感じるうえに、ペンネームが円城 塔といういかにもアレなアレで、読んだら後悔しそうな雰囲気がぷんぷんしているというか、まあそういうわけでずうっと敬遠していた。それが、その円城 塔が芥川賞をとったとかでテレビのニュースに出ていて、予想外に物理臭が薄いところが興味深い。枯れたのかもともとこういう人なのか。それで、その後twitterを見ていてこういう記事を見付けた > ポスドクからポスドクへ

ううむ、成長途中で鉄柱に行く手を阻まれた松の木が、湾屈しながらも育ち続けて、やがて鉄柱を幹の中に飲み込んだまま巨木に成長してしまったとでもいうような、屈折と剛直が同居したような文章。物理学者として順調なキャリアを積んでいたとしたら決してこういう人間にはおなりにならなかったのではないか、と赤の他人としての勝手な想像をめぐらせてしまうようなお人柄で、正直惚れてしまった。

ということで早速小説を読んでみようということで手に取ったのが、たぶん芥川賞がなければ絶対にこんな本置いていなかったであろう近所のN書店に置いてあった「道化師の蝶」。内容についてここに書くつもりはないが、なかなかに変な --- ということはつまり新しいということだが --- ところのある小説で、好みとしてはもうちょっと変な方向に振り切れる部分があってもよいと思うが、それにしても面白い。私的定義によればこれは小説として成立していると思う。偉そうな言い方だが、小説を読むというのは全く一人きりの個人的な体験でしかないのであって、一人きりなのだから偉そうなことを言うのは仕方ない。それはそれとして書いておきたいのは、この小説の作中話者の一人が旅行に出ると本が読めなくなるひとで、そのことを綴った文章表現に他人事とは思えないリアリティがあって、小説読めない症から恢復途上にあるわたくしとしては常ならざるシンパシーを感じたのである。個人的体験にねざす読書をした。

それでこの「道化師の蝶」はSFではないのだが、SFっぽいというか、ファンタジー的というか、別の言い方をすると一種寓話的な外見をしている。しかしそうはいうものの、既存の定型的な物語に還元することはできなくて、そこが面白いというか、小説として成立しているところ。そんなことを考えているうちに、ちょっと前に読んだ東浩紀の「クォンタム・ファミリー」を連想した。こちらは見るからにハードSFっぽい外見をしている。量子力学 quantum mechanics という1世紀ほど前に成立した物理学理論があって、それによると、小さな粒子 --- 電子とか陽子とか --- の世界では、粒子の位置とか速度とかを一意的な変数で表すことができなくて、波動関数という、数学的にまあ簡単にいえば、もやもやと広がった雲か煙のような関数で表される。それでは粒子がそういうもやもやしたものであるとすると、その粒子の位置を正確に特定することはできないのかというとそんなことはなくて、測定した瞬間に波動関数はシュパッと一点に収縮して正確に位置を特定することができる、という。じゃあ普通じゃんと思うところだが、じつは位置を特定した瞬間に今度はその粒子の速度がまったく分からなくなる、つまり不確定である、というようなまあそういう理論である。らしい。

それでそういう分かり難い理論であるのだが、電子とかの世界のことは量子力学で表すことでいろいろ辻褄の合う説明ができる。しかも量子力学によれば、人間の目に見えるくらいの「大きなサイズ」のことどもについては、事物に付随するもやもやはもはやものすごく小さくなってしまうので、決定論的な古典力学で考えても何も矛盾は生じない。ということになっている。

とはいえ人間の体もどんどんどんどんズームインしていけば電子だとかクォークだとかいう粒子で出来ているわけで、そこまでいけばもやもやの世界であって量子力学から逃れることができるわけではない。というような具合で、にんげんの感覚からするとどうにも納得しがたい部分がある。そのために、たとえば波動関数というものをどのように「解釈」するか、というようなメタとも思える議論がある。その一つに「多世界解釈」というのがあって、波動関数で表されるもやもやは無数に存在する並行世界を表していて、そのような無限の世界のうちの一つが「私」のいるこの世界である、というような解釈らしい。それでその並行世界間の通信が実現したという設定がこの小説。

前置きが長くなったが、この小説、量子力学の多世界解釈とかいうなかなか高踏的ないでたちをしているのだが、じつは多世界といっても二つ三つくらいの世界しか出てこなくて、量子力学的に見るといかにもしょぼい。はっきりいって古典力学的世界でしかない。むかし、太陽を挟んで真向かいにもう一つの地球があって、そこでも我々と全くそっくりなひとびとがそっくりな文明を作っている、という古典力学的小説があったが、それとほぼ同じ設定。それでそのような舞台設定のうえで繰り広げられる物語は、これも輪をかけて古典的な、家族間の感情のもつれみたいなウェットな話で、なんのための量子力学なのか結局よくわからないのであった。どこに向かっても開かれていかない。私の極私的定義によると、これは小説ではない。個人的には、最後まで読み通せたのでそれはそれで大きな収穫であったのだが。

そんなことを書いているうちに、俳句における連体止めと英語詩における現在分詞の用法についてまだここに書いてないことを思い出した。もしかすると誰かが既に言っていることかも知れないが、自分自身にとっては面白い発見だったので書いておきたい。

と思ったが休憩時間が終わった。そのことはまたの機会に書くのである。


生きものを踏むように踏む春の泥

2012年2月19日日曜日


春愁の前頭葉を食む蚕

さまざまなもの交雑し春の泥

何日か前の「陰」のエントリーで一句引用した後藤貴子のことをネットで漁っていたら、– 俳句空間 – 豈weeklyに記事があった。その記事で、後藤貴子本人が江里昭彦の句と自分の句の違いに言及した文章が引用されていて、面白かった。曰く、江里の句はnudeで、自分のはnakedだという。「股間」のエントリーで書いた劣情云々というあたりのことを端的に言い当てられていると思った。そこで引用されている江里の「腰で番い夜へ漕ぎ出す楽器かな」と、後藤の「右曲がりなる銀漢の灌ぎ口」は劣情への結託度合いにおいてたしかな違いがあるとおもう。

で、私はnakedを嗜好するのである。nudeはつまらん。

Nine Inch Nails のなんとか


2012年2月12日日曜日


蛇使ひ淋しい時は蛇を抱き 藤村青明

蛇を食ったことがあるというと気味悪がられるのであまり言わないことにしているが、すこし前の日本の田舎ではたいてい蛇を食ったものである。頭を釘で板に打ち付けて体をナイフで裂く。鉄串に刺して軽く塩を振ってから七輪で炙って食うのである。旨いかどうかはもはや忘れた。郷愁もさして無い。蛇はどうでもよいのだが、蛇のことを書いていると、蛇よりもむしろ早春の山の風情が懐かしくなる。懐かしいというと大げさで、去年の春はそこそこ歩いた。ただ、今年はちょっと体を傷めてしまって行けそうにない。そうしてみると、芽吹く直前の木々やら、霜が溶けたばかりの土やらの、匂うか匂わないかの淡いにおいがおもわれて、なんともたまらなくなるのである。あと何年山歩きができるのか、などと年寄りじみた思いも湧いてきたりする。で、まあ山歩きができない代償行為として河川敷を歩いたりしている。ヨシ原を歩いていてモグラの穴だらけだったりすると嬉しくなる。もうじき雲雀が啼く。


蛇穴を出でて黒瞳の人となる  くろやぎ

にんげんみな身中に蛇飼ひし頃

穴二つ残して土龍消えにけり



2012年2月3日金曜日

冬の王


おほきな釘を巨人は打てり冬来る

爆心の明るさに似て冬の陽は

老人は屹立す 手に冬林檎

冬麗ナザリー行きの青い電車

no woman no cry, 人ハ冬老イル

その年もみな沈みたり冬の湾

二千四百八十一回まはつておはる冬の旅

偽記憶を振り撒いて節分に雨




2012年2月1日水曜日

夏蜜柑


夏みかん崩れるなよぐれるなよ くろやぎ

夏蜜柑みんな不幸になればいいのに

こはがらずはじめの一歩夏みかん

千年の枕辺に水、夏蜜柑

それはそうと……

その年の春に親父が亡くなったわけです。前の年の夏に癌が見つかって、でももう手術で取るには手遅れで、抗癌剤で進行を遅らせるくらいしかなかったんです。でもね、兄から聞いたんです。親父には癌だということは言ったんだけど、切らなくてもいいくらいの癌だから、抗癌剤でよくなるよって言ってたんだそうです、医者も兄も。この新薬は良く効くんですよ、副作用もないしと医者が言ってたそうです。暮れに見舞いに行った時に親父がそう言ってました。実はそのとき親父に聞かれたんですけどね、兄ちゃん、なんか言ってなかったかって。抗癌剤で治るそうだよって言ったんです、俺も。

親父は農家の三男で、若いときに実家を出て商売してましたからね。墓がないわけです。親父も60過ぎたくらいから気にしてはいたらしいんですが、用意はしてない。それで兄は親父が入院したりしている間、探し回ったらしいです。それで、車で山側にちょっと登って行ったところの市営霊園に空きがあるっていうんで。間に合って良かったよって、二月頃に行った時に言ってました。坂の途中だから歩いていくと大変だけどなって、苦笑いっていうのかな、まあ笑ってました。

それで、春の、ゴールデンウィーク明けの頃でしたね。まあ一年近くは生きられたし、痛みもほとんどなかったからよかったね、と葬式の時にはみんなに言われました。

まあそんなことを思い出しながら、墓石を見ていたわけです。坊さんのお経を聞きながら、墓地の階段の下にみんなで突っ立ってたんですけどね、みんなで。四十九日でね。納骨するっていうんで伯父さん叔母さんとか呼んで、みんなで墓地に来たんです。それで、お経のあいだ、坊さんの方を見るふりして俺は墓石を見ていたんです。見ていたっていうよりぼーっとしていただけかもしれないですけどね。新しい墓石なんですよ。黒御影っていうのかな。けっこう高そうなんですよ。兄も奮発したんだなあって。

でまあ、それが新しい墓石なんで、表面がつるつるぴかぴかなんですよ。黒御影だし。その時ふっと、石に何か映っているのに気が付いたんです。ずうっとお経聞きながら墓石眺めてたはずだから、目には入ってたはずなんですけどね、意識にはのぼってなかった、それまでは。何かまるい、明るいものが映ってるの。なんだろう? じっと考えたんです。あたりを見回しでもすればすぐにわかるはずなんですけどね。どうしてもそれが何であるか知りたいってわけでもなかったし、お経を上げて貰っているんだからあんまり動いちゃいけないっていう意識もあったのかもしれないです。

でもまあ、あれはなんだろうかあ、となんとなく気になってですね。考えていたんです。それで、そうか、あれだ、と。俺の実家のあたりは昔からの土地だから、庭とかみんな広いんですよね。それでどこに行っても柿とか枇杷とか夏蜜柑とか、実のなる木が植えてあるんです。でも、柿の季節じゃないし。夏蜜柑も春先くらいに全部とっちゃうんですけどね、いつも高いところに二つ三つ実を残しておくんですよ。木守柿ってあるじゃないですか。あれと同じみたいなことだと思います。むかし親父がそんなこと言ってました。きっとあれだって、そのときわかりましたね、俺は。

墓石に映つてゐるは夏蜜柑 岸本尚毅