2012年2月26日日曜日
踏む
ちょっと前に、小説が読めなくなった話を書きかけた。その続きではないが続きでもあるような、最近読んだ小説の話。
小説読めない症を患っていた頃だと思うが、東大駒場で物理の学位を取った人が小説を書いてなんかの賞をもらったとかいうような話を聞いた(いま確認したが、貰ったのではなくて候補になったくらいのころだと思う)。SFっぽい小説は嫌いではないのだが、物理学者クズレ(失礼!)が小説に転進、というあたりにどうもウロンなものを感じるうえに、ペンネームが円城 塔といういかにもアレなアレで、読んだら後悔しそうな雰囲気がぷんぷんしているというか、まあそういうわけでずうっと敬遠していた。それが、その円城 塔が芥川賞をとったとかでテレビのニュースに出ていて、予想外に物理臭が薄いところが興味深い。枯れたのかもともとこういう人なのか。それで、その後twitterを見ていてこういう記事を見付けた > ポスドクからポスドクへ。
ううむ、成長途中で鉄柱に行く手を阻まれた松の木が、湾屈しながらも育ち続けて、やがて鉄柱を幹の中に飲み込んだまま巨木に成長してしまったとでもいうような、屈折と剛直が同居したような文章。物理学者として順調なキャリアを積んでいたとしたら決してこういう人間にはおなりにならなかったのではないか、と赤の他人としての勝手な想像をめぐらせてしまうようなお人柄で、正直惚れてしまった。
ということで早速小説を読んでみようということで手に取ったのが、たぶん芥川賞がなければ絶対にこんな本置いていなかったであろう近所のN書店に置いてあった「道化師の蝶」。内容についてここに書くつもりはないが、なかなかに変な --- ということはつまり新しいということだが --- ところのある小説で、好みとしてはもうちょっと変な方向に振り切れる部分があってもよいと思うが、それにしても面白い。私的定義によればこれは小説として成立していると思う。偉そうな言い方だが、小説を読むというのは全く一人きりの個人的な体験でしかないのであって、一人きりなのだから偉そうなことを言うのは仕方ない。それはそれとして書いておきたいのは、この小説の作中話者の一人が旅行に出ると本が読めなくなるひとで、そのことを綴った文章表現に他人事とは思えないリアリティがあって、小説読めない症から恢復途上にあるわたくしとしては常ならざるシンパシーを感じたのである。個人的体験にねざす読書をした。
それでこの「道化師の蝶」はSFではないのだが、SFっぽいというか、ファンタジー的というか、別の言い方をすると一種寓話的な外見をしている。しかしそうはいうものの、既存の定型的な物語に還元することはできなくて、そこが面白いというか、小説として成立しているところ。そんなことを考えているうちに、ちょっと前に読んだ東浩紀の「クォンタム・ファミリー」を連想した。こちらは見るからにハードSFっぽい外見をしている。量子力学 quantum mechanics という1世紀ほど前に成立した物理学理論があって、それによると、小さな粒子 --- 電子とか陽子とか --- の世界では、粒子の位置とか速度とかを一意的な変数で表すことができなくて、波動関数という、数学的にまあ簡単にいえば、もやもやと広がった雲か煙のような関数で表される。それでは粒子がそういうもやもやしたものであるとすると、その粒子の位置を正確に特定することはできないのかというとそんなことはなくて、測定した瞬間に波動関数はシュパッと一点に収縮して正確に位置を特定することができる、という。じゃあ普通じゃんと思うところだが、じつは位置を特定した瞬間に今度はその粒子の速度がまったく分からなくなる、つまり不確定である、というようなまあそういう理論である。らしい。
それでそういう分かり難い理論であるのだが、電子とかの世界のことは量子力学で表すことでいろいろ辻褄の合う説明ができる。しかも量子力学によれば、人間の目に見えるくらいの「大きなサイズ」のことどもについては、事物に付随するもやもやはもはやものすごく小さくなってしまうので、決定論的な古典力学で考えても何も矛盾は生じない。ということになっている。
とはいえ人間の体もどんどんどんどんズームインしていけば電子だとかクォークだとかいう粒子で出来ているわけで、そこまでいけばもやもやの世界であって量子力学から逃れることができるわけではない。というような具合で、にんげんの感覚からするとどうにも納得しがたい部分がある。そのために、たとえば波動関数というものをどのように「解釈」するか、というようなメタとも思える議論がある。その一つに「多世界解釈」というのがあって、波動関数で表されるもやもやは無数に存在する並行世界を表していて、そのような無限の世界のうちの一つが「私」のいるこの世界である、というような解釈らしい。それでその並行世界間の通信が実現したという設定がこの小説。
前置きが長くなったが、この小説、量子力学の多世界解釈とかいうなかなか高踏的ないでたちをしているのだが、じつは多世界といっても二つ三つくらいの世界しか出てこなくて、量子力学的に見るといかにもしょぼい。はっきりいって古典力学的世界でしかない。むかし、太陽を挟んで真向かいにもう一つの地球があって、そこでも我々と全くそっくりなひとびとがそっくりな文明を作っている、という古典力学的小説があったが、それとほぼ同じ設定。それでそのような舞台設定のうえで繰り広げられる物語は、これも輪をかけて古典的な、家族間の感情のもつれみたいなウェットな話で、なんのための量子力学なのか結局よくわからないのであった。どこに向かっても開かれていかない。私の極私的定義によると、これは小説ではない。個人的には、最後まで読み通せたのでそれはそれで大きな収穫であったのだが。
そんなことを書いているうちに、俳句における連体止めと英語詩における現在分詞の用法についてまだここに書いてないことを思い出した。もしかすると誰かが既に言っていることかも知れないが、自分自身にとっては面白い発見だったので書いておきたい。
と思ったが休憩時間が終わった。そのことはまたの機会に書くのである。
生きものを踏むように踏む春の泥
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