2012年8月20日月曜日

季節が「立つ」というのは陽光の問題じゃないかな、という気がしてきた。そうだとすれば地域差、個人差はあまりないかもしれない。気候の違う土地でも黄道は共通だから。それに対して、このへんまでが夏、その先は秋っていう季節の境目は 地域によって違うし人にもよる、と。

二十四節気


ひさ〜しぶりに週刊俳句をのぞいたら二十四節気がどうのこうのという文章がいくつか載っていた。ちゃんとは読まなかった。

うちでは夏の間は扇風機を壁に向け、窓を開け放って寝るのだが、7月の中旬くらいから以降は暑くて暑くて、夜中に眼が覚める。喉がからからになっているので、仕方なく起き上がり冷蔵庫の冷茶をコップ一杯飲んでがばっと蒲団に倒れ込む。乾燥していた肌から汗がダクダク出る。そしてまた眠る。そういうことを二度ばかりするうちに外が薄明るくなって烏が騒ぎだし、さらに少しすると熊蟬が鳴き出す。それが夏。

ところが、ある時期になると突然、夜中に起きる回数が1回で済むようになる。一度冷茶を飲むとそのまま朝まで眠れる。明け方が涼しくなるのだ。開けはなった窓から冷気が入り込んでくる。薄ら寒くなって、傍らに置いてあるだけのタオルケットを引っ張って掛けたりする。これが「秋が立つ」ということだと思う。そしてそれはちょうど立秋の頃である。その後は、扇風機を止めたり、夜中に開放している窓の開け具合が徐々に狭くなっていったりする。

もちろん、夜明け前後の短い時間が過ぎてしまえば、7月下旬と変わらない暑い夏である。しかし、太陽の高度が徐々に下がってくるので、朝の通勤は道路の南側歩道を通れば建物の影になって涼しい。この時季は日影と日向の気温差に敏感になる。それでかえって、太陽の光にうんざりしてくる。これはまさしく「晩夏」だと思う。

晩夏はどこまで続くか。これも経験上はっきりしている。高校野球が終わるまでである。高校野球のトーナメントが進むにしたがって徐々に夏は弱まっていく。それでも高校野球が終わるまでは、と夏が頑張っているのがわかる。遂に高校野球が終わって翌日か翌々日になると、夏は自ら倒れる。日中でも秋の風が吹く。ホントである。今年も来週には秋の風情が味わえるはずである。

これは僕の季節感である。立秋があってすぐに秋になるわけではなくて、夏の盛りが頂点に達したところに立秋が訪れ、そこからしばらくは夜明け前後の短い時間のみに秋が姿を現すものの、それ以外は晩夏という季節がつづき、あるときついに秋になるということである。

面倒くさくなってきたのでもうこれ以上書かないが、他の季節についても僕には似たような感覚がある。立春、立夏、立秋、立冬はそれぞれの季節が「立つ」時季に対応していると思うし、ただし、それがすぐに四季の交替に対応しているわけではなく、そこからある一定の期間の晩冬、晩春、晩夏、晩秋を経た後に、それぞれに節目になる事象があって季節が交替する、という感覚を持っている。

同じような感覚を持っている人は多いのではないかとおもうが、別にこんなことは多数決で決めるようなことではない。他の人、あるいは他の地域に住んでいる人にはそれぞれに季節感があるだろうと思う。僕自身はこのような季節感のなかで生きていて、自分の季節感に即した言葉をつかう。それだけ。高校野球が行われているこの季節は晩夏以外のどんな季節でもないと思うし、これを秋と呼ぶのはばかげたことだと思う。

2012年8月13日月曜日

昨日書いた

八月の鏡は闇を閉じ込めず

について。

この句は、最初、

   鏡は闇を閉じ込めず

という中七下五のフレーズがでてきた。このフレーズに明確な(散文的なあるいは論理的な)意味があるのかと言われれば、それは無い。しかし、では無意味なのかと言われるとそうではない。(詩的な)意味はあると思っている。が、ここではそれについては書かない。

この中下に組み合わせる上五を考えた。中下の(詩的な)意味をそのまま生かすための一つの方法は、無機的な上五を組み合わせることではないかと思った。

磨きたる鏡は闇を閉じ込めず
磨かれた鏡は闇を閉じ込めず

などを思いついた。しかし、鏡を形容するのに「磨く」を使ったのでは詩の世界としていかにも狭い。折角五音も使うのだからもっと広げなくてはと思った。それで、中下の(詩的な)意味を具象化することを考えた。元々、中下の十二音に散文的な意味はない。それをたとえば何かの具体的事物に結びつけることで、(詩的な)意味を実体化することができないかというわけだ。と考えた途端、

原爆忌鏡は闇を閉じ込めず

が出てきた。ちょっと戸惑った。中下の(詩的な)意味を、ある方向で具象化しているには違いない。しかし原爆忌は強い語だ。これを使うことで意味を具象化しすぎて、一種の思考停止というか、意味の大洋のただなかにぷかぷか浮いていた十二音がいきなりどこかの港のとある桟橋に縛り付けられてしまうようなことにはならないか。怯えた。

それでもう少し抽象化してはどうかと思った。

夾竹桃鏡は闇を閉じ込めず
晩夏光鏡は闇を閉じ込めず

などを思いついたが既に原爆忌に引きずられている。取って付けた感じでうまく収まらない。結局、

八月の鏡は闇を閉じ込めず

で止めてみた。これでいいのかよく分からないが、ある地点で踏みとどまっているとは思う。詩の広がりと具象化の二つの方向で考えてみたということだけ記録しておきたくなった。

2012年8月12日日曜日

8月12日


    鏡

紅梅やすさまじき老手に  田川飛旅子
奥深きを舐めて春の蠅  鷹羽狩行
春昼の愁ひをうつさざる  柴田白葉女
の背中恐ろし夏の恋  対馬康子
畳踏む夏足袋映るかな  阿波野青畝
冬の空罠かも知れぬ吊り鏡  小長井和子
冬の谷の中を行くごとし  高野ムツオ
耐えるため青空に割るかな  守谷茂泰


(気が付けば3ヶ月。しばらくあれやこれやから遠ざかっていたのですが、すこし時間というか余裕ができたのでリハビリ。俳句データベースで「鏡」を検索してみた。1000句以上あるのを一句一句読んで、気になるものを拾い出した。現状記録みたいな。)

八月の鏡は闇を閉じ込めず  くろやぎ