2013年4月26日金曜日

遠隔転移


   遠 隔 転 移

目に鱗肩に鱗翅が生えて春

人生の悔いを演算する屍体

欅の末梢神経標本

先つちよを千枚通しで突く遊び

櫱を三本剪つて昂ぶりぬ

あはれ葉桜よあはれランゲルハンス島

春深し鵠沼義肢製作所


相変わらず一人で好き勝手に作るのが好きなんだが、最近ご縁をいただいてネットの投句サイトに投句するようになった。なってみると人に何か言われたりするのも面白いと思うようになって、投句先が一つから二つ、三つと増えたりもしている。座の雰囲気に合わせるつもりはなくて好き勝手な句を投げ込んでいるつもり。とはいえ、兼題が蚕とか種蒔きとか言われると型に囚われるというか自由奔放にできないところが技術の伴わない素人の限界である。

それで、そういえばずっと以前にもネットで投句したことがあるのを思い出した。週刊俳句で投句を募っているのを見て、いっちょやってみたろと出したのが上の七句。俳句はじめて半年くらいでちょっと苦しくなってきた頃。縛りは「演目義経千本桜」で、一字ずつ入っている。選者の馬場龍吉さんが2句拾ってくださって、そういえば嬉しかったような気がする。もっとも、当時は馬場龍吉さんがどなたか存じなくて、もう一人の選者の佐藤文香さんに捨てられた悲しさの方が大きかった。(馬場さんご免なさい、私が馬鹿でした。)

投句したときは標題はなかったが、何もないのもアレだと思ってさっきつけた。当時、折角出すので七句で塊になるようにとテーマを考えたので、だいたいそれっぽいがちょっとずれている。人生4年分のずれ。4年前っていうと随分だが、それからどれだけ変わっているのかいないのか。(最後の句の中六をなんとかしたくてできなかったのだが、さっきひとしきり考えてみたがやはりうまくいかない。進歩してゐないということですはね。)

2013年4月20日土曜日

にんげん


まくなぎの高さにんげんの高さかな

にんげんに感情ありて薄暑かな

にんげんに感情ありて五月闇

にんげんのおほきな頭だとおもふ

にんげんにある鳥の器官で啄みぬ

にんげんみな身中に蛇飼ひし頃

八月の海にんげんがたくさん

にんげんを静かに遡上して吐息


旧ツイッターアカウントからにんげん句を採取してきた。3年前の春から翌年暮れまで。こうしてみると全然進歩というものがない。「にんげん」を漢字で書くと「人間」なんだけれども、どうやらこの作者は、「にんげん」と「人間」とは違う意味になると思っているらしい。作者がそう思うのはそれはそれで結構だが、果たしてその違いは、読み手と共有されているのだろうか。

麦畑


死後歩く道あるならば麦の秋 高野ムツオ


Vincent van Gogh "Wheat field with crows" (Van Gogh Museum)
Painted in July, 1890, a few weeks before the painter is believed to have shot himself with a revolver.

2013年4月13日土曜日

ふしあはせ


たましひがなくてふしあはせなやかん

僕はながいこと本といえば小説ばかり読んでいました。小説というのは決まりごとはあまり無くて基本的に何をしてもよいという世界であって、作者は好きなことを書けばよいし(売れる売れないは別として)、読者としても好きなものを好きなように読めばよいわけです。

それで小説の中には、読者を不幸にすることを主たる狙いにしているものがあるわけです。普通にまっとうな読書生活をしようとしている読者が道を歩いていると、あるとき足もとから手を伸ばして地中に引きずり込もうとする。いやだいやだと思ってあがいても、逃れることはできず、ついに引きずりこまれる。縛り上げられたり、窒息させられそうになったりしたあげく、もう小説読むくらいでどうしてこんなに不幸にさせられるのか、と打ちのめされてしまう、と。そのようにしてなおも読み続けていくと、あるときふと、どこかの小部屋でひとり正座してじっと鏡を覗き込んでいる自分がいるのに気づく、と。まあ、そういうやり方で読者を翻弄するわけです。

それでまあ、俳句にもそういう不幸系、ふしあわせ系みたいなジャンルがあっても良いのではないかと思うわけです。にんげん誰しも幸せなことばかりではないし、ほら、好きこのんで寒い冬山で苦労することを選ぶひともいるわけだから、、、というわけです。

以上、さっき思いつきました。

独立の一句としてそういう句は実はたくさんあると思いますが、10とか10x10とかの塊で作者も読者も一緒になってもがき苦しむ、みたいな世界があるのもいいなあ、と。

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というようなことを思いつきで書いて一晩置いておいたら、放哉とか山頭火みたいな人達は句集まるごとふしあわせ系なのではないのか、と脳内の誰かが言いました。そうかもねーと呟きながらも、それはなんか違うなーと思ってしばし黙考。考えてみると僕が想定していたのは、フィクションとしてのふしあわせ系俳句であって、放哉や山頭火のノンフィクションあるいは日記系文学としての俳句とは違うのでした。

そこであらためてはたと気がついたのは、そもそも俳句の主流、本流はノンフィクションであるということでありまして、うえに書いたことは要するに、ある主題を持ったフィクションとしての句群を100句くらいの塊で構成するということなんだなあと漸く自覚した次第でござる。むーーー、大変そう。




2013年4月10日水曜日

洗ふ


顔洗ふ贖罪のごと俯いて

というわけで、「洗う」がちょっとしたマイブーム。いろんなものを洗ってみている。

アメリカのミュージックビデオなぞ見ていると、よく女性が車を洗っているシーンが出て来る。女性ミュージシャンだと本人のこともあるし、男性ミュージシャンだと本人ではなく女性モデル。日本文化的にはピンとこないが、彼らにとっては何かの記号なのだろう。

それで、車ではなくても、何かを洗うという動作には、何か象徴的な意味が乗り込み易いような気がする。いろんな人が顔を洗うシーンをビデオに撮って繋いでみたら面白いと思う。みんな同じ姿勢で ----- つまり、俯いているはずである。顔にかぎらず、グラスを洗う、Tシャツを洗う、水菜を洗う、ズック靴を洗う、、、

いろいろ洗うものはあるが、そのなかで、手を洗うという動作をよく観察すると非常に面白いことに気が付いた。人間の身体でもっとも繊細に動かせるのは(右利きの人であれば)右手であって、その次が左手のはず。手を洗うという動作においては、このナンバーワンとナンバーツーの器用器官が絡み合って協働するわけで、見ていて面白くないわけがない。

と思うのだけれど、この文章では、僕がいったい何をどう面白いと思っているのか伝わっていないのではないかと思う。

この面白さを表現する言葉を見つけたいなー


2013年4月7日日曜日

右手左手


左手は右手の雲丹を知らざりき 櫂未知子

春暁の左手の知る右手かな 長谷川櫂

ポケットの底のボタンを握りおることすら右手はすこしも知らず 山崎方代

知る知らない系。

東京は暗し右手に寒卵 藤田湘子

雑踏をゆく牡蠣提げし右手冷え 佐野美智

右手つめたし凍蝶左手へ移す 澁谷道

右手冷たい系。

わが肩にわが左手の春の暮 攝津幸彦

そういえばそうだ。

左手に右手が突如かぶりつく 阿部青鞋

そういえば逆は無い。左手は控え目。

昼寝覚左手ふいと余りたる 大石雄鬼

余るときも左手。控え目だから。

右手で描く
その手
桑名の左手よ  酒巻英一郎

「その手」から「桑名」が出て来るところに日本文学の命脈がある。

四月馬鹿完全主義の右手かな 内田美紗

ふうん。

夏の雨かすかに触れてゐる右手 夏井いつき

ああ、軒下で雨宿りしていますね、これは。青春でござる。

左手で粽を結ふを見てゐたり 大山文子

これも写生ですね。粽を結うのをさっきからぼーっと見ている。ふと、あらあの人左利きだったのね、と気がつく。その曖昧な時間の流れを逆転して再生してみせている。

右手置く一万年後の春の辺に 高岡修

あ、これはなんだろう。飛び越え方が好き。



石鹸で手を洗っていて、考えごとをしていたのか、単にぼうっとしていたのか、ふと気がつくと右の手と左の手がくねくねと絡み合ったり滑ったりしながら形を変えていく。そのさまが面白くて、自分の手ではないような気がして、しばらく眺めていた。そのことを俳句にしてみようと思ったのだが、なかなか難しいのである。挫折死そう。

とりあえず類想句はあまりなさそうなのでもうちょっとねばる。

2013年4月6日土曜日

ホオジロ


失語とは葦原に頬白の啼く




鳥の俳句を10句ばかり並べてみるのも面白いと思ったのだが、手持ちが烏、雲雀、燕、鵠、雁くらいしか思いつかない。そう考えると実に平凡である。丹頂とか鶺鴒とかガビチョウとかキビタキとかダチョウとか蝙蝠とか、いろいろ詠まねば(あ、ダチョウはあるかもしれない)。ということで鳥づくしはまたの機会にします。

2013年4月2日火曜日

オオイヌノフグリ


今の間のおういぬふぐり聖人去り 攝津幸彦

今の間の王/いぬふぐり/聖人去り、でしょうか。何か、諍いでもあったんでせうね。

レールより雨降りはじむ犬ふぐり 波多野爽波

雨はレールから降る。ふむふむ。

犬ふぐり一ぱい咲いてゐる孤独 加倉井秋を

これは分かる気がする。にんげんだもの。「一ぱい」が曲者で、小学3年生の作文みたいに見せかけておいて、いきなりズドン。

犬ふぐり屯す郵便受の下 高澤良一

この句をぢつと見ていると、犬ふぐりがリアル犬の陰嚢に思えてくるという、、、 異化というやつですな。

跼みたるわが影あふれ犬ふぐり 深見けん二

わかります。カメラで撮ろうとしていますね、これは。

口あけて死者来る朝の犬ふぐり 坪内稔典

稔典先生のこの句はさっぱりわからないです、正直(←賛辞


植物の名前としてはイヌノフグリ(犬の陰嚢)であって、でもそれだと6音で使いにくいので、のを取っぱらって5音にしたという俳句的ご都合主義の季語。まあ、日本語の世界からみると、業界用語、隠語、俗語の一種ですかね。しかも、そのへんに咲いているあの花たちは、ほとんどがオオイヌノフグリであって、イヌノフグリではないというのもなにか気になる。はたまた、オオイヌノフグリという植物学的命名自体も「大/犬の陰嚢」のつもりが「大犬/の/陰嚢」と読めてしまってアレだということもある。

そんなこんなが幾重にも重なって、俳句としては「犬ふぐり」ででよいのだろうが、当のオオイヌノフグリたちにとっては、犬ふぐり、犬ふぐり、と言われて、なんか小馬鹿にされているような気がしているのではないかと、他人事ながら心配になる。


ねころんでみよおおいぬのふぐりなり くろやぎ