2014年9月19日金曜日

人名俳句


人名俳句というジャンルがジャンルとして認知されているのかどうかは知らない。なぜか色物っぽい感じがする。(色物の俳句て何?、とか聞かないでください。)自分で作ったのは、、、と思い出そうとして、ミック・ジャガーは思い出したが、あとはなにかあったかな。あまり無いと思うが、もうすこしあったかもしれない。モディリアニとかあと誰かもあったかもしれない。

だいたい、ツイッターで書きちらす以外に、あちこちに出したりしてそのままだから、覚えている句は覚えているが、忘れたのは忘れた。その気になって探せば8割くらいは見つかると思っているが、思っているだけだと思う。そういうものですね。

↓これはいかにも色物だが、割と気にいっている。動画(のurl)までつけて俳句ポストに投句したが蹴られた。




秋つばめ顎で風切る橋幸夫  くろやぎ



動画を見なおしてみると、見栄は切ってるんだが歌舞伎みたいにオーバーじゃないし、あまり「顎で風切」っている感じがしない。俳句ポストで蹴られるのも当然である。でも、わたくし個人としては、1日2日経ってからこの動画のことを思い出すと、またしても、顎でビュービュー風切ってる映像が脳裏に湧いてくるんだなこれが。テレビっ子時代の記憶が歪んだままにおっさんの脳のどっかに固着しているということでしょうね。

2014年6月24日火曜日

間際効果


走ってる ハンカチ落としてからずっと








昔からよく知られている「間際効果」というのがあって、それは何かというと、なかなか進まないしごと(対価を得る「仕事」に限らず、広い意味での単なる「しごと」)も、どこかの誰かによって締め切りが設定されると、実はそれでもすぐにはなかなか進まないのだが、締め切りの間際になっていやいやでも手を動かし出すと、いつしか勝手に手が動いたかと思うと、みるみるうちにはかどって、あっという間に終わってしまうという、アレのことである。

この間際効果というのは本当にあって、それは僕自身身をもって知っているのだが、実は最近新しい発見をした。何かというと、締め切りが定期的に繰り返し繰り返しやってくるような状況では、最初のうちは間際効果で確かにサクサクとしごとをこなせるのだが(この「こなせる」、状況をどことなく他律的に眺めているような意識が既に入り込んでいる)、そのうちに体のどこかでキョゼツハンノウとかいう虫が蠢きだして、最初は小さい小さい虫が1匹いるだけなのだが、日を追うごとに2匹が4匹、4匹が8匹、8匹が16匹、、、、と増えてくる、そしてついには掟破り、ではなく締め切りを破ってなにもかも放り出す、ということになるのである。締め切りを放り出すまでの期間というのは、おそらく人によってだいたい決まっているのではないかと思うが、僕の場合はざっと20回か30回の締め切りが続くともう駄目らしい。

到底、いしいひさいちにはなれそうにない。

2014年5月30日金曜日

沖縄


沖縄やシャワー浴びるに口ふさぐ





子どもの頃に大好きなアイスクリームを食べ過ぎてお腹をこわして以来アイスクリームが食べられなくなった、というような話を時々きく。そういう食べ物がある人は結構いるのではないか。実は、僕にもそういう理由で食べられない(絶対に食べられないわけではないが、食べようとすると体の中の何者かが拒絶している感じがする)食べ物がある。

休暇な、もとい旧かなで俳句を書くのをやめることにした。文語文法も基本的にはやめる。まあ、文法については、有史以来の日本列島のことばが文語と口語に2分されるわけでは全然ないので、厳密にというわけではない。やめるのにたいした理由があるわけではないのだが、ある時、旧かなや文語で書こうとすると体の中の何者かが嫌がっているような感じにおそわれたのである。(アイスクリームと違って、お腹をこわすほど旧かな・文語を使いすぎたわけでもないのにね。)

2014年5月19日月曜日

植田


植田まだ空を映しているばかり 高濱年尾

さつぱりと植田三枚夕景色 柴田白葉女

植田守る男ときをり街を眺め 福田甲子雄

夜の植田シーツの幅に人は寝て 北原志満子





知り合いの上田さんはローマ字で名前を書くときは Ueda と書く。普通である。知り合いの植田さんは、ローマ字で名前を書くときは Weta と書く。上田のうはあ行のうだが、植田のうはわ行のうであるらしい。

そういえば、新聞の投書欄で読んだ話だが、大阪出身で奈良在住のその投書家の方も、同じ職場の方々もずとづを区別して発音しているし、聞き取っているという。私はづとずの違いについては何かで読んだことはあるが、自分では聞き分けられないし、聞き分けられないから発音しわけることもできない。

ああ、ちがいがわからないおとこである。

2014年5月11日日曜日

白昼夢


籐椅子のリリアン・ギッシュまどろめる


10代のリリアン・ギッシュ (w/ ドロシー・ギッシュ) -- An Unseen Enemy (1912)

90代のリリアン・ギッシュ(w/ ベティ・デイビス) -- The Whales in August (1987)

嗚呼、全然変わってないぢゃないか!

2014年5月5日月曜日

近江の人は惜しむだけ


ぶらんこや地べたに俺に空が青い

葭の角幾たび生まれかわつても


釈然としない病も春菊も


嗅ぎあててみよ胎生の春泥を


後悔や行く処なき春の水


古傷をつつつくあそび春の雨


芽柳は大気に頭突つこんで


ゆつくりとうたふともだちはるのくも


つちふるやいつかぼくらもそこへゆく


馬の子を圧し潰さんと空青し


つばめ飛ぶことばにできぬ衝動を




今年の春はめんどくさいことに巻き込まれて毎日ああでもないこうでもないと巻き込まれた仲間たちと右往左往しているうちに終わってしまった。ようやく晩春のステージまでクリアしたが次は初夏のステージが待っている。昔から敵というものは懲りない、諦めない、反省しないものである。(まあしかしこの生活にも慣れた。なるようにしかならんし。)

俳句は適当に並べてみたが、俳句ポストに出した句と自分のツイッタで勝手に囀った句の間には、水と油のような「混ざらない感」があるなあ(と今更ながら思う)。題詠苦手ということもあるのだが、それにしても…… 余所行きの句はやめようと決めたはずなんだが。

2014年3月1日土曜日

二月尽


ここでまた佐保姫に逢ふ闇小路

風光る再び生まれ来る子らに

町中の子ら取り替へて二月尽


久しぶりにブログでも書こうかと思ったらパスワードを思い出せなくて苦労した。で、苦労してようやく潜り込んだら、何を書く気だったのか忘れているという、春の烏。

さて、気を取り直して何かてきとーに書いてみる。

二月である。もう終わったけど、昨日まではとにかく二月であった。二月というのは、月の初め頃に節分があって立春があって、あとは大体冬の続きみたいなものである。むかし、日本では立春の前の日にソイビーンを撒いてデビルをやっつけるんだよと東欧人に教えてやったら、ああ俺の国でも似たような行事があるよソイビーンは撒かないけど、と教えてくれた。寒くて暗くて辛い冬がようやくくたばりそうになるのを祝ってお祭り騒ぎをするのは、世界中どこでもあることなのかもしれない。それで、二月にはいつも再生の気配があるのだろう。

二句目は松山俳句ポストに出した句。輪廻とか生まれ変わりとかということを詠もうと意識して作ったのではなくて、いきなりふわっと言葉が降りてきた。これはどういう意味だろうとしばらく考えてから、そういう風に読めることに気がついた。個人的にはいまはいない家族のことを想起したりもした。で、締切の水曜の夜にようやく投句して、翌朝、電車の中でネットを巡回していたら、日本人の宗教のはなしがあって、「一度生まれの人」、「二度生まれの人」という言葉がでてきた。ちょっと吃驚した。

三句目は取り替え子伝承、まんまである。どうしてこういう考えが受け継がれてきたのか、と思う。