2012年4月24日火曜日

4月24日


□ 高山れおなさんは芸術新潮の編集の仕事をしているらしい。そうだとすると、これはベタだったかも。(それはさておき「れおな」という名前で女性と思う人もいるのか。)

□ 「飯島晴子読本」をぼちぼち読んでいる。むかし何かの本で出た自句自解の文章が収録されていて、取り上げられた句には、ご丁寧にもすべての漢字にふりがなが振られている(初出の句集で振られているルビ以外も!)。「月光の象番にならぬかといふ」には「げつこう」、「ぞうばん」と振られている。ふうむ。まあよい。

無形文化財。流石、千年の都。

(このテーマの色設定では、リンクが見にくい。)

2012年4月22日日曜日

天網


天網は冬の菫の匂かな 飯島晴子


「天網」などという語は、年寄りが「天網恢々疎にして漏らさず」などと言う時くらいしか使われないものだと思っていたので、意表を突かれた。 しかし、天空に網が広げられているという空想は、これはなかなか詩的であると言えば言える。

辞書によれば、「天網」は老子に出て来る言葉で、天帝が張り巡らした観測網、警戒網のことだそうである。何人も逃れることはできない、と。 それで思い出したのだが、子どもの頃、天空に 誰かがいていつもその目で見張られているような気がしていた。あれは、天網が見えかけていたのかもしれない。

などと漢語をつかって偉そうなことをいうほどのものでもなくて、おてんとうさまと言えば足りることである。もっとも「天道」もまた漢語だ、多分。しかし、天道というと天の道だが天網といえば網である。広がる空想は大きく異なる。そこが詩語。

天網に青条揚羽捕らはるる くろやぎ

網があれば蝶がつかまる。なんという単純な真理。青条揚羽はアオスジアゲハ。片仮名で書けば分かりやすい。漢字で書くともっともらしい。

天網に囚はれたまま死なぬ蝶

その条を星座となして果つるとや

天網に捕まったら死ぬのか、死なぬのか、そこがわからない。「老子」には書いてあるのだろうか。

天網の夜更けて蜘蛛の這い出る

天網の主北天を登り詰め

網と言えば蜘蛛、蜘蛛と言えば網である。単純なる真理。天空一面に網を張りめぐらせた天帝の正体とは、何を隠そう天の蜘蛛であったのであった。

天網のあれは穴だと思ふ月

網といえば穴がつきものである。これまた単純な(略)。網に空いた穴からは天上の光が射し込むのだろう。

さて、天帝たる大蜘蛛は天網の穴を繕ふことができるのか! はたまた、天網に捕らえられたるアオスジアゲハの運命や如何に! (つづく、かも)

2012年4月9日月曜日


桃の花べそかいてゐる邪神の子

蹂躙ののち夏蜜柑匂へるを

夕空におほきな目玉 見つめらる

敦盛の塚に据ゑたる夏蜜柑

神滅び仏が滅び桃の花

ウルトラ


高山れおなの第一句集「句集 ウルトラ」の古本が比較的安価でアマゾンに出ていたので買った。どれくらい安価かというと送料込みで新刊定価とほぼ同額。ただし「帯に少し痛みがあるのみ」という説明とはウラハラに、本文中に多少とはいえ走り書きの書き込みがある立派な古本。しかもボールペンだし…… 私は仕事関係で読み捨てにする本以外では書き込みをする習慣がないので結構驚く。

佐保姫や死を愕かす美斗能麻具波比

この句に「ミトノマグアヒ」と振り仮名の書き込みがある。こう書くと普通のことのようだが、じつはここにはもともと「みとのまぐはひ」と平仮名でルビが振ってある。前所有者氏はそのルビが気に入らなかったらしい。

第一句集と書いたが、わたしが買ったのは平成20年発行の新装版。元は平成10年に沖積舎からでていて、10年経って同じ沖積舎から新装再刊されたもの。うえに新刊定価と書いたのは新装版のものである。ちなみに第二句集である「荒東雑詩」はアマゾンに出店している古本屋が送料別九○○○円の値札をつけていて手がでない。第三句集は去年の暮れか今年の新春には出るはずとどこかで読んだが、桜咲いたにまだ出ない。

一読して最初の感想は、たいへんに端正な姿形をした句が多いということ。そもそも字余り字足らずの句がほとんどない。そこかよと言ふべからず、大切なことである。ためしに五七五から外れるものを書き出してみる。

未来輝き顔が映らぬ初鏡

泣く社長へ叫ぶ社長の賀状かな

春や近江の爪切る音が武蔵まで

富士すなはち大首塚や江戸の春

芭蕉けふは女なりけり春怒濤

頬掠めしや雲に入る鳥の腰 

桜鯛のやうに食はれてみたきかな

殺生関白貌を隠さぬ朧かな

その顔は藤房に隠されてゐる

苧環(をだまき)と夜な夜な闘ふ千葉市長

娘あらば遊び女にせむ梨の花

過去仏(くわこぶつ)の過去の乱交の裔(すゑ)か海市は

総金歯の美少女のごとき春夕焼

陽炎つてしまふ他なし手に手に太刀

ほとんどないと思っていたが、書き出してみたら結構あった。ここまで、新年21句、春季66句のうちざっと14句。多少見落としもある。まあよい。もう抜き書きはしないが、ここにある字余り句からも想像されるとおり、全編を通してかたちが整っていて強靱な定型感を感じる句が多い。ちなみにここまで87句のうち、前所有者がボールペンでレ印をつけた句は2句あって、うち一つが「総金歯」の句だった。なるほどこういうのがお好きなんですねなど思う。

それはさておき、上に揚げた字余りの14句をみただけでもわかることだが、たいへんに多彩な句構造を見ることができる。「富士すなはち大首塚や」、「芭蕉けふは女なりけり」なんて、私には思いも付かない言い回しである。「頬掠めしや」というのも、ああ「や」は何にでもつけられるのだなあなどと初心者として感嘆しきり。しかも「鳥の腰」とはなんとテクニシャン。

技術を駆使して組み上げられた句構造にはカラフルで絢爛豪華な語彙が嵌め込まれる。しかし花鳥諷詠的何かが盛りつけられることはなく、そうかといって抽象語切り貼り的前衛(俳句史業界用語としての「前衛」)からはむしろどんどん遠ざかっている。感慨とか意味とかいったマジメっぽいことから逃げよう逃げようとしているように見える。耽美な冗談。これはあれだな、詩とか小説とかの文学よりも現代美術のセカイに類似物が多い気がする。村上隆とか草間弥生とかあるいはもっと若い世代とか。そうか。そう考えてからあらためて「これはコンテンポラリ・アートだ」と思って句集を読み返してみると妙に腑に落ちてしまうところがあったりなかったりするのである。










2012年4月5日木曜日

桃の花


故郷はいとこの多し桃の花 正岡子規

交りは母系に厚し桃の花 中戸川朝人

天幕が空へふくらみ桃の花 中田剛

赤ん坊の掌の中からも桃の花 長谷川櫂

桃の花死んでいることもう忘れ 鳴戸奈菜

旅にして昼餉の酒や桃の花 河東碧梧桐

昔にも昔ありけり桃の花 奥坂まや

雛の日の郵便局の桃の花 深見けん二

不相応の娘もちけり桃の花 小林一茶

直立が農夫のいこひ桃の花 平畑静塔

神々いつよリ生肉嫌う桃の花 赤尾兜子

五年見ぬ古郷のざまや桃の花 黒柳維駒


個人的には、最後の維駒の句が痛切。