2013年2月28日木曜日

椿


まつかになつて息とめてゐる寒椿

俳句を作り始めて半年くらいの頃の句。楽しかった思ひ出しかない。俳句の出来がどうこうということよりも、楽しかった思い出がそのまま句に貼り付いている気がする。他の人にはわからないだろうが、、、

さてそれで、この寒椿の句をつくったすぐ後くらいに、ネットのどこかをさまよっていたら、次の句と出くわした。

家ぢゆうの声聞き分けて椿かな 波多野爽波

うわっこれはすごい、俳句てのはこういうふうにつくるのか、と感心したのを今でも覚えている。感心したなんて書くとエラソーだが、実際、ホントに感心したのである。多分、自分で俳句(というより575の短詩)をつくってみて、575の枠内での言葉の組み合わせ方というようなことを意識するようになっていたからかもしれない。とにかくこれは凄い、と思ったのである。

それで、3年もたってどうして今頃こんなことを書いているのかというと、つい最近、この爽波の句を小川春休さんが週刊俳句で鑑賞していたのを見たのである。
椿の咲く春ともなると窓も大きく開かれ、家の中で交わされる会話が外まで聞こえてくる様子からは、晴れやかな開放感を感じる。椿は家の生垣のものであろうか。中七の末の「て」は屈折を孕んでおり、聞き分けているのは人(作中主体)とも椿の花とも読める。
鑑賞文に引っかかるところがなければどうということもなかったのだろうが、僕は小川さんの鑑賞を読んで、ほおこういう読み方もあるのかと大変に驚いた。俳句の読み方なんて百人百様なわけで、そんなことはわかっているのだが、ことこの句については、出会った瞬間に自分のなかに鳴り響いた「音」が今でもくっきり残っていて、それが小川さんの読みのトーンと全然違うので不覚にもうろたえたのである。

折角だから、忘れないように(ホントは絶対に忘れないと思っているが、いつかは惚ける。惚けてもこれを読めばきっと思い出す。はずであると信じて)、なにをどう驚いたのかここに書いておこうと思う。

まず第一に書いておく。作中主体は家の中にいる。これは絶対にそう。椿も家の中で、一輪挿しかなんかで作中主体の眼前にある(小川さんの文を読んで、椿は外にあってもよいかと、つまり、作中主体は窓から外の椿を眺めているのでも良いかとも思ったが、やはり椿は作中主体の眼前にある、部屋の中にあるのが絶対的に良いと思う)。作中主体がいるその場所は和室で、障子ごしに明るい光がさしている。和室の中は無音。作中主体は風邪でも引いて寝込んでいたのかもしれないが、もうよくなっていて意識はものすごく明晰であると自覚している(ここ重要)。昼間のことで、家族は居間やらお勝手やらあちこちにいる。来客もいるのかもしれない。玄関には速達を届けに郵便屋さんも来ている。それらの人々の声が遠くからあるいは近くから聞こえて来る。作中主体はそれらの声をすべて明晰に聞きとっている。かれはそれらの声を聞きとりながら、それと同時に、眼前の椿の花をさっきからじっと見つめている。いつしか真っ赤な花に魅入られるように、かれの意識は陶然としている。明晰かつ陶然、あるいは陶然かつ明晰な意識。部屋の中は完全に無音。

「家ぢゆうの声聞き分けて」という表現は、作中主体の周辺の空間が「完全に無音である」ことを示している。窓を開け放した家の外から「家の中で交わされている会話」を聴いているのでは、絶対にない。その部屋は洋室ではなくて、紙と木と土でつくられた和室=無音の空間でしかありえない。作中主体はその無音の空間にあって、さっきから真っ赤な椿の花を見つめ陶然としており、その静謐な世界に聞こえてくる「家ぢゆうの声」をすべて聞き分けているのである。

このような状況のあれこれはすべて「聞き分けて」の「て」に込められている。作者は、中七の末の「て」によって、作中主体と椿が陶然として一体となった絶対空間が立ち現れてしまう、ということを唐突に発見してしまったのだと思う。この空間にあっては、「和室のなかで椿を見つめている作中主体」と「和室のなかにぽつんと置かれた椿」はもはや区別が付かない。シュレディンガーの猫状態。至幸の俳句。

(余談だが、これを書いていて、この爽波先生の句を読んだのが2月のことだったのを確信した。というのは、この句を何日もくちずさんでいるうちに、突然、とてもクダラナイ着想が生まれて、とてもクダラナイ句を作ってしまったのが3年前の2月末日であったことを思い出したのである。自分的にはそれはパクリと言われそうだとも思っているのだが、爽波先生からすればそんなクダラナイ句はパクリとも言えないと言われそうなくらいにクダラナイ句だった。)

2013年2月22日金曜日

マスメディア


夕暮はラジオを叩く父となる 仁平勝

牛小屋にラジオ鳴りをり文化の日 武田忠男

円鏡のラジオやせわし年用意 小沢昭一

「昭和30年代」(カッコ付き)ですねー。音とか匂いとか懐かしいものが漂っています。

目刺焼くラジオが喋る皆ひとごと 波多野爽波

不機嫌な波多野さん。その不機嫌が僕にはなぜかとってもリアル。そういえば波多野さんは一時期うちの近所にお住まいだったらしいです。

白魚やテレビに相撲映りをり 岸本尚毅

二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり 金子兜太

昭和40年代から50年代でしょうか。岸本さんは温泉旅館、金子さんは秋葉原のラジオ会館だと思います ← きっぱり。

八月六日のテレビのリモコン送信機 池田澄子

ううむ。テレビはおまけでリモコンが主役ですね。暗喩か直喩かと一瞬悩みましたが、そうではなくて俳句的二物衝撃的くそぢから。凄い。

風死して日本中のテレビ蒼し 正木ゆう子

ううむ。俳句的言い切るちから。

街頭テレビに映れば巨人寒波来る 山口優夢

渋谷でしょうか、新宿アルタでしょうか。なんとかビジョンてやつ。平成なのにすでにとても懐かしい。

極月や死者みな生きてゐる動画 くろやぎ

まあ、ユーチューブです。ようつべ。

2013年2月17日日曜日

春の湿度


にんげんにきこえぬ声で春の雨

紙箱に閉ぢ込められて紙の性

ゆふがたといふ感情のおきどころ


*ここに掲載していた句の一つが奥坂まやさんの句に類似しておりました(4/6 「ホオジロ」コメント欄参照)ので、削除しました。ご迷惑をお掛けしました。(4/11 くろやぎ)


いきものを踏むやうにふむ春の泥

一昨年の暮れか去年の新春には出るはずとどこかで読んだ高山れおなさんの第三句集だが、しばらくネットから遠ざかっていた間にでたらしい。ところがどこで手に入れられるのか分からない。流通には乗っていない模様。そのうちどこぞの古書屋が9,999円でアマゾンに出すのを待つしかないのか。どうしたもんだか。
(凝ったつくりらしい高山さんの「俳諧曾我」とは関係ない話だが、少量出版で流通性の低い句集みたいなものはCreateSpaceとかBlurbとかのようなルートで出せばよいのに、と時々おもふ。無理?)

前回エントリーの続き。「Aは〜〜した」を「〜〜したA」と書き換えて、さらに「〜〜してA」としたら俳句っぽくなるのではないかと、実験してみた。

寒い国から来たスパイ
寒い国から来てスパイ

なんとなく俳句ぽい。この際、上五もつけちゃう。

國民みな寒い国から来てスパイ

ううむ。もうちょっとやってみなくては。


2013年2月10日日曜日

好きで


不調は底打ちをしたようで、外に目が向くようになりつつある。
それで週刊俳句を見ていたら「コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希」の句のことが(そればかりではないのだが)話題になっていた。この句は何度かどこかで見たことがあって、「で」の繋ぎ方のことが気になっていた。週刊俳句の論者は、この「で」について、散文における「で」の用法では解釈できないことを指摘したうえで、これが「切れ」の一種として読まれるべき「で」であり、そのおおざっぱさが「幼さ」や匿名的な印象に繋がっているという。

それで、いつもお世話になっている大型俳句検索エンジンで調べてみた。中七が「○○○○好きで」となっている句を全て書き出す。

グループ 1
菠薐草の赤根が好きで踊り好き 星野紗一
弟は漫画が好きで春の風邪 田野岡清子
ポピー咲く帽子が好きで旅好きで 岡本眸

グループ 2
日傘より帽子が好きで二児の母 西村和子
ぶらさがり止まりが好きで秋の蝶 高澤良一
一の鳥居の高さが好きで初雀 長谷川秋子
根つからのおしやべり好きで雀の子 明石洋子
この森の暗さが好きで川とんぼ 寺島美津枝
曲家の暗さが好きで残る虫 猪瀬 幸
葛飾の夕日が好きで残る鴨 中嶋秀子

グループ 3
杜甫よりも李白が好きで冷し酒 依岡秋灯
この土地が丸ごと好きで焼林檎 齊藤千恵子
医者のいふ諸悪が好きで梅雨ごもり 佐治朱港
今もなほ昭和が好きで籠枕 池田琴線女
猫が好き金魚が好きで陰の祭 川崎展宏
丸餅も小豆も好きで粥柱 町 春草

グループ 4
酒・風花どちらも好きで終焉地 相原左義長
鶏頭の素朴が好きで日が昏れて 三橋鷹女

グループ1は散文の「で」の使い方の典型例で、「誰それがあれでこれで」という並列表現。「弟」句のみ多少外れているが一応ここに置いた。五七五になっているという一点だけで俳句になっている句もある。

グループ2は「AはBが好き」を「Bが好きなA」と置き換えて、さらに切れを入れて「Bが好きでA」と言い換えて俳句にしたもの。論理構造の明快な句といえる(もちろん、褒めているのではない)が、グループ1のたとえば菠薐草句よりも「俳句ぽい」感じ。後半の23句は次のグループ3に進化する途中であるようにも見える。 そのグループ3は所謂十二音技法の俳句で、「作中主体は何かが好きだ」と叙述したうえで五音の名詞(普通は季語)を提示するという書き方。「〜が好きで」で切れて、季語(名詞)で落ちをつけている。その「落ち」も結局は作中主体の好物だったりするのであまり飛躍はない。

グループ4はグループ1〜3に分類できないものを置いた。2句だけで、しかも共通点はないので「グループ」というより「非グループ」の句である。左義長句は、「Aは○○が好き」、「Aの終焉地」という二つのことを「○○が好きで終焉地」と詠んでいるように読める。グループ2の「AはBが好き」は俳句にするためにちょうど良い具合の論理構造と言えるが、これはそういうお誂え向きの論理構造ではないことをあえて五七五にねじ込んだ感じ。そのために、グループ2の句群よりも新鮮な気がするのが面白い。

鷹女句。「鶏頭の素朴が好きで」までは作中主体のことを言っていて、普通の俳句的にはこのあとに作中主体の正体を示す名詞が来たり(グループ2)、あるいは作中主体の好きな別の何か(名詞季語)を配したり(グループ3)することになる。そこを鷹女は「日が昏れて」と空振りしてみた。「〜〜で〜て」の文章構造だから一見すると論理性があるような気がするが、散文としての論理性は全くない。「好きで」のあとには大きな切れがある。「作中主体は鶏頭の素朴が好きだ」ということと、「日が昏れた」ということは、散文では「〜で〜て」と並列に叙述できるようなことではない。そこを「〜〜で〜て」の構造にねじ込んでしれっとしている。あっぱれである。

神野のコンビ二句は、鷹女の鶏頭句に似た構造の句であるとみなすことが出来て、「Aはコンビニのおでんが好き」だということと「星がきれい」ということの、散文的には「で」で繋げられるようなものではない二つを「で」で繋いでしれっとしているように読める。しかも平成の口語。しかしその一方で、ややこしいのは「星きれい」が単なる客観事実の叙述とはかぎらなくて、「(A(あるいはB)は)星がきれい(だと思っている(言っている))」というようにも読めることで、そうだとすると「菠薐草の赤根が好きで踊り好き 星野紗一」に限りなく近い句としても読める。この点が読み手として腑に落ちないので、鷹女句のようには感心できないでいる。

2013年2月3日日曜日

ピアノ


クロッカスいきなりピアノ鳴り出しぬ 宮岡計次

秋茄子をもぐやどこかでピアノ鳴る 加倉井秋を

萱草の花に日暮のピアノ鳴る 秋篠光広

実桜やピアノの音は大粒に 中村草田男

雪激しピアノ売りたる夜のごとし 櫂 未知子

囀やピアノの上の薄埃 島村元

けだるさやピアノの上の春埃 筑間美江

空蝉を置きてピアノに土こぼる 鷹羽狩行

滅びつつピアノ鳴る家蟹赤し 西東三鬼

久しぶりに一人で家にいる。遠くでピアノの音が聞こえる。なんか俳句でもと思ったが出来ないので、ピアノの句を探してみた。意外と秀句が少ない(うはっ、すげえエラソー)。クロッカス、秋茄子、萱草、実桜。だいたい同じつくり。草田男のがちひとひねりあって楽しい。櫂さん、すごく作り込んだ感じ。すごすぎて作り物のように見えなくもない。次の二句、山と言えば川ピアノと言えば埃。鷹羽さん、三鬼さん、えろてぃっく。

2013年2月1日金曜日


親指と人差し指の違いについて考えている。あるいは生について。

輪廻ということがあるとして、私が次の生を生きるとき、その私は今の私のことを覚えているのだろうか、ということを思った。それはどうしても分からないのだが、今の私について考えてみれば、前回の私の生、前々回の私の生について何も覚えていない(あるいは、覚えているという覚えがない)のだから、その伝で行けば次の生の私は多分いまの私の生について何も覚えていないだろうと予測はできた。そしてとても淋しくなった。

あるいは単に輪廻と言うことがないのかもしれない。生は無限の螺旋ではないのかもしれない。そうだとすると、今ある生は、ある長さの線分のようなものだ。そう考えた途端、線分の始点から先にずーっとつづく無限の空虚と、終点から逆向きにずーっと続く無限の空虚とに挟まれた線分のあまりのみじかさに、寒くなった。それでこの考えは、つまり輪廻と言うことがないという考えは、忘れる(ふりをする)ことにした。いずれ、今の生を生きている私にとって輪廻と言うことがあるのかないのかわかりようがないのだから。

そうすると、問題は次の生を生きる私が今の生を生きる私を忘れてしまうことだ。それは私にとっては耐えられない淋しいことだ。

次の生を生きる私が、今の私を忘れないために、今ここにいるこの場所にしるしをつけておく。たとえ一時は忘れても必ずここに帰って来られるように、地面に決して消えない瑕を深く刻んでおく。そのようにしたいと思った。そういう瞬間があったのである。わざわざこういうことをここに書くのも瑕の一つなのかもしれない。

しるしをつけるなんべん生まれかわってもここに

(ここまで書いて読み返してみるとなんかえらく感傷的な感じだが、自分ではそうでもないので、たぶん書き方がわるい。ほんとうはすごく冷静で客観的な観察とそれに付随するささやかな希望について述べたいのだと思う。)