2013年2月1日金曜日


親指と人差し指の違いについて考えている。あるいは生について。

輪廻ということがあるとして、私が次の生を生きるとき、その私は今の私のことを覚えているのだろうか、ということを思った。それはどうしても分からないのだが、今の私について考えてみれば、前回の私の生、前々回の私の生について何も覚えていない(あるいは、覚えているという覚えがない)のだから、その伝で行けば次の生の私は多分いまの私の生について何も覚えていないだろうと予測はできた。そしてとても淋しくなった。

あるいは単に輪廻と言うことがないのかもしれない。生は無限の螺旋ではないのかもしれない。そうだとすると、今ある生は、ある長さの線分のようなものだ。そう考えた途端、線分の始点から先にずーっとつづく無限の空虚と、終点から逆向きにずーっと続く無限の空虚とに挟まれた線分のあまりのみじかさに、寒くなった。それでこの考えは、つまり輪廻と言うことがないという考えは、忘れる(ふりをする)ことにした。いずれ、今の生を生きている私にとって輪廻と言うことがあるのかないのかわかりようがないのだから。

そうすると、問題は次の生を生きる私が今の生を生きる私を忘れてしまうことだ。それは私にとっては耐えられない淋しいことだ。

次の生を生きる私が、今の私を忘れないために、今ここにいるこの場所にしるしをつけておく。たとえ一時は忘れても必ずここに帰って来られるように、地面に決して消えない瑕を深く刻んでおく。そのようにしたいと思った。そういう瞬間があったのである。わざわざこういうことをここに書くのも瑕の一つなのかもしれない。

しるしをつけるなんべん生まれかわってもここに

(ここまで書いて読み返してみるとなんかえらく感傷的な感じだが、自分ではそうでもないので、たぶん書き方がわるい。ほんとうはすごく冷静で客観的な観察とそれに付随するささやかな希望について述べたいのだと思う。)