2013年2月10日日曜日
好きで
不調は底打ちをしたようで、外に目が向くようになりつつある。
それで週刊俳句を見ていたら「コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希」の句のことが(そればかりではないのだが)話題になっていた。この句は何度かどこかで見たことがあって、「で」の繋ぎ方のことが気になっていた。週刊俳句の論者は、この「で」について、散文における「で」の用法では解釈できないことを指摘したうえで、これが「切れ」の一種として読まれるべき「で」であり、そのおおざっぱさが「幼さ」や匿名的な印象に繋がっているという。
それで、いつもお世話になっている大型俳句検索エンジンで調べてみた。中七が「○○○○好きで」となっている句を全て書き出す。
グループ 1
菠薐草の赤根が好きで踊り好き 星野紗一
弟は漫画が好きで春の風邪 田野岡清子
ポピー咲く帽子が好きで旅好きで 岡本眸
グループ 2
日傘より帽子が好きで二児の母 西村和子
ぶらさがり止まりが好きで秋の蝶 高澤良一
一の鳥居の高さが好きで初雀 長谷川秋子
根つからのおしやべり好きで雀の子 明石洋子
この森の暗さが好きで川とんぼ 寺島美津枝
曲家の暗さが好きで残る虫 猪瀬 幸
葛飾の夕日が好きで残る鴨 中嶋秀子
グループ 3
杜甫よりも李白が好きで冷し酒 依岡秋灯
この土地が丸ごと好きで焼林檎 齊藤千恵子
医者のいふ諸悪が好きで梅雨ごもり 佐治朱港
今もなほ昭和が好きで籠枕 池田琴線女
猫が好き金魚が好きで陰の祭 川崎展宏
丸餅も小豆も好きで粥柱 町 春草
グループ 4
酒・風花どちらも好きで終焉地 相原左義長
鶏頭の素朴が好きで日が昏れて 三橋鷹女
グループ1は散文の「で」の使い方の典型例で、「誰それがあれでこれで」という並列表現。「弟」句のみ多少外れているが一応ここに置いた。五七五になっているという一点だけで俳句になっている句もある。
グループ2は「AはBが好き」を「Bが好きなA」と置き換えて、さらに切れを入れて「Bが好きでA」と言い換えて俳句にしたもの。論理構造の明快な句といえる(もちろん、褒めているのではない)が、グループ1のたとえば菠薐草句よりも「俳句ぽい」感じ。後半の23句は次のグループ3に進化する途中であるようにも見える。 そのグループ3は所謂十二音技法の俳句で、「作中主体は何かが好きだ」と叙述したうえで五音の名詞(普通は季語)を提示するという書き方。「〜が好きで」で切れて、季語(名詞)で落ちをつけている。その「落ち」も結局は作中主体の好物だったりするのであまり飛躍はない。
グループ4はグループ1〜3に分類できないものを置いた。2句だけで、しかも共通点はないので「グループ」というより「非グループ」の句である。左義長句は、「Aは○○が好き」、「Aの終焉地」という二つのことを「○○が好きで終焉地」と詠んでいるように読める。グループ2の「AはBが好き」は俳句にするためにちょうど良い具合の論理構造と言えるが、これはそういうお誂え向きの論理構造ではないことをあえて五七五にねじ込んだ感じ。そのために、グループ2の句群よりも新鮮な気がするのが面白い。
鷹女句。「鶏頭の素朴が好きで」までは作中主体のことを言っていて、普通の俳句的にはこのあとに作中主体の正体を示す名詞が来たり(グループ2)、あるいは作中主体の好きな別の何か(名詞季語)を配したり(グループ3)することになる。そこを鷹女は「日が昏れて」と空振りしてみた。「〜〜で〜て」の文章構造だから一見すると論理性があるような気がするが、散文としての論理性は全くない。「好きで」のあとには大きな切れがある。「作中主体は鶏頭の素朴が好きだ」ということと、「日が昏れた」ということは、散文では「〜で〜て」と並列に叙述できるようなことではない。そこを「〜〜で〜て」の構造にねじ込んでしれっとしている。あっぱれである。
神野のコンビ二句は、鷹女の鶏頭句に似た構造の句であるとみなすことが出来て、「Aはコンビニのおでんが好き」だということと「星がきれい」ということの、散文的には「で」で繋げられるようなものではない二つを「で」で繋いでしれっとしているように読める。しかも平成の口語。しかしその一方で、ややこしいのは「星きれい」が単なる客観事実の叙述とはかぎらなくて、「(A(あるいはB)は)星がきれい(だと思っている(言っている))」というようにも読めることで、そうだとすると「菠薐草の赤根が好きで踊り好き 星野紗一」に限りなく近い句としても読める。この点が読み手として腑に落ちないので、鷹女句のようには感心できないでいる。
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おひさしぶりです。
返信削除春なので、風邪もすっかり治ったし髪でも切りましょうと言うことで美容院へ行ってきました。
杜甫と李白の違いがよくわからないので調べてみます。
isida
あ、isidaさんだ。お久しぶりです。
返信削除杜甫と李白ですか。中3の時に国語を教わった志村先生が、あるとき、なんでもいいから詩を憶えておくといいのよ、と言って、黒板に「國破山河在、、、」とさらさらと書かれ、「くにやぶれてさんがあり、、、」と読み下してくれたことがあります。純真であった僕はそれを一生懸命憶えました。10年以上後になって飲み屋で隣になった中国人の前で、割り箸の袋に「國破山河在、、、」と書いてみせて感心されました。いいことがあったと思いました。が、それが李白なのか杜甫なのかいまでもすぐ分からなくなります。