2012年1月9日月曜日



棒一本立ったまま死ねない冬だ くろやぎ

関 悦史の「六十億本の回転する曲がった棒」という句集を読んでいる。この句集は読者 ––– ここでは、すなわち僕自身のことである ––– をして、前へ前へと読み進めさせるちから(英語の意味として正しいかどうか知らないが、個人的には文章のもつそのようなちからを readability と呼んでいる)が異様に強い。この readability は句集のそれではなく、小説のそれにとても似ていると思う。

一般論めいたことが言えるほど句集というものを沢山読んでいるわけではないのだが、読んだことのある句集について言うかぎり、必ずしも前後の繋がりが強いわけではない句が、よくいえば一句一句屹立した状態で並べられていて、読み手としての僕は、鉛筆を片手に、これはよい、これはちょっと、とぽつりぽつり印を付けながら読む、句集とはそういうものだと思っていた。

ところが、この「六十億本」はそれらとは逆だ。この句集、百句前後からなるあるテーマの下に書かれた句の塊が、句集としてはたぶん破格の一頁八句という高密度で詰め込まれている。普通の句集であれば、二三頁も読めばうんざりしはじめているわたくしがそこにいるのであるが、この句集についてはそういうことが全くない。あえて自分を鼓舞せずともどんどん読める。六七百句ほどの句を小一時間の通勤電車で一通り読んでしまい、読んだあとで、気になった塊ごとに、また最初からこんどはじっくりと、それも_塊として_、読み返している。この読書体験はやはり小説、それも良質な短編連作集に近いものであるように思う。

その一方で、この句集、一句一句の「屹立感」は薄い。一句が一句であることを主張していない、というか。作者として、個々の句に一句としての完結を追求していないのではないのだろうか。いろいろな要素を組み合わせ繋ぎ合わせている句が多いのだが、一句としてではなく、ある大きさの句の塊としてはじめて読み物たりうることを狙っているのではないか。

そのことが小説的な readability に繋がっているのだと思っている。



0 件のコメント:

コメントを投稿