まつかになつて息止めてゐる寒椿 くろやぎ
だいぶ前になるが、ツイッターで歌人の斉藤斎藤さんが「写生とは何か」ということを囀っていて、とても面白いと思った。ついさっきそのことを思い出したのだが、大事なことなのでメモしておくことにした。たしかツイッターでお気に入りの★マークをつけておいたはずだと思って探しました。ありました。
【短歌は写生である・1】突然ですが、短歌入門をはじめます。短歌に興味のない方、短歌にくわしい方、ごめんなさい。二回目はあるかわかりませんが第一回、短歌は写生である。写生とは何か。読者が作者の身になって短歌を読む、という態度のことです。
【短歌は写生である・2】「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり/正岡子規」。有名な歌ですが、これと言って何も言ってません。花瓶に藤の花をさしたら垂れ下がったけど、短かったので、畳には届かなかったなあ。これだけです。どうしてこの歌が、よい歌だとされているのか。
【短歌は写生である・3】第一に、「藤の花が畳に届かなかった」という見え方をしているので、作者は畳の上(のふとん)に寝ているのだろう、と推理できます。立ってたり座ってたりしたら、花の先端が畳に届いてるかいないのか、多分わかりませんからね。
【短歌は写生である・4】第二に、「(いつもより)短いので届かなかった」と詠っているということは、短くない藤の花は畳に届いているのを、ふとんの上から作者はいつも見てきた、と推理できます。つまり作者は、ふとんの上にかなり長い時間いる人らしいと、わかります。実際、子規は病床にいました。
【短歌は写生である・5】つまり写生の歌とは、写真から逆算して、カメラマンの位置や個人情報を割り出すことができる歌です。藤の花がこのように見えているならば、作者は病気で寝ていたのではないかと推理し、病床の作者の身になって、藤の花を見る。これが写生の歌を読むときの、読者の作業です。
【短歌は写生である・6】いまの短歌では、子規のように明確な写生の歌をつくっている人は、そんなには多くありません。しかし今でも、読者が作者の身になって読むという、ひろい意味での「写生」は、結社や歌壇の主流を占めていると思います。
【短歌は写生である・7】「写生」とは、歌を読んで、ことばに妙な引っかかりを感じたら、その引っかかりから作者の位置や気持ちを逆算しようとする、読みの作法のことです。ことばが変なのは、作者が下手なのではなく、何か理由があるはずだと、いったん性善説(?)に立って読むのが写生です。
【短歌は写生である・おまけ】引っかかりをきれいに消した歌を結社の人が読むと、かえって下手に見えてしまいます。読者に親切すぎる歌には、作者の身になる手がかりがない。観光ガイドの写真は、観光地の魅力は伝わってきても、構図が整えられすぎていて、カメラマンの位置を逆算できないように。
これを読んでなるほどと思った。写生とはそういうゲームだったのかと理解した気分になった。なったわけだが、その一方で心の片隅に「ホンマかいな」という気持ちもあった。
その後しばらくして、ネットのどこか(たぶん週刊俳句だと思うが)で、
白菖蒲切っ先高き葉の奥に 村上鞆彦
という句があって、ああ葉っぱがあって白菖蒲がある、そういうもんやなあと思っていたら、どなたか(杉原祐之さんという伝統俳句の人だったとおもう)が「手前側の菖蒲は紫」と断言しているのを見て驚いた。ああ、これが斉藤さんの云う写生ということだったか、とフカク納得したのだった。自分なりに理解したところでは、作者の村上さんは自分の見たままをありのままに言葉で書き写しているわけではないらしい。作者とは別に架空の詠み主体を仮定したうえで、その詠み主体の視線が通った跡を規定する。その視線の通った一部の情報だけを曝して、読み手に対して視線の通った全体を復元してみよと謎かけしている、というようなことだと思う。「葉の奥に」というあたりに斉藤さんの云う「妙な引っかかり」が仕込んである。沢山咲いている菖蒲の花のうち、奥の方の白菖蒲だけを写生して、さあ全体の景色がわかるかと謎かけしているわけである。なるほど面白いゲームだ、と思う。が、その一方で自分でこのゲームに参加することはないだろうとも思ったことをおぼえている。
話はもう少し続くんだけれども、最近見つけたこの句:
雪の音絶えて深雪となりゐたり 橋本冬樹
を読んで、おおこれも写生だと思ったわけである。俳句の人には多分当たり前のことなんだろうけれども、この句も写生の句なんだろうと思う。雪の音が途絶えるというのは普通は雪が止むことを示すのだろうと思うが、この句ではその後が「深雪となりゐたり」と続く。これが「妙な引っかかり」。その引っかかりを手がかりに解読してみる。昨日からずっと雪がはげしく降り続いていて、床につく頃にも戸外ではしんしんと雪の降る音がしていた。それが夜明け頃にふと目が覚めるとその音がしない。全くの無音。一晩中降り続いた雪はもう軒先近くまで降りつもっていて、もはや家の中には雪の音が届かなくなっていた。しんしんと雪の降る密やかな音を詠んだ句は多いが、その音さえも届かない無音の世界を詠んでいる、ということになると思う。
2012年1月26日木曜日
陰(ほと)
ひとの陰玉とぞしづむ初湯かな 阿波野青畝
磯ぎんちゃく足組めば陰しひたぐる 川口重美
陰に生る麦尊けれ青山河 佐藤鬼房
涅槃図や麦生る陰と生らぬ陰 後藤貴子
来迎のひとり残らず陰に鳥 攝津幸彦
卯の花や縦一文字ほとの神 森澄雄
陰かくすごとくに滝の落ちにけり 若井新一
こつあげやほとにほねなきすずしさよ 柿本多映
栗咲けりピストル型の犬の陰 西東三鬼
暗窓に白さるすべり陰みせて 金子兜太
陰の中に滅び入りけり盆の道 齋藤愼爾
陰もあらわに病む母見るも別れかな 荻原井泉水
ほとなしの眠人形ねむらする 三橋敏雄
こんしんのコレクションである。
閑話休題。10年くらい前から小説が読めなくなった。面白そうだと思って読み始めても、10頁、20頁と読み進めるうちにだんだん苦痛になる、いくら読んでも小説を読むこと自体のよろこびのようなものが感じられなくてどうにもつまらなくなる。というようなことを何度となく繰り返した。そのうちに、もう小説は読めないのではないかと思うようになった。そうするとその影響かどうかわからないが、今度は文章を書くのが苦しくなってきた。仕事ではある量の文章を書く必要があってそれはなんとか書けるのだが、それ以外の文章たとえばここに書いているような無駄な文章というものが全然書けなくなった。何をどう書いてもこれは自分が書きたい文章ではないとか書かなくてもどうでもよいものだとかいうように思えて、すべて消してしまうということが続いた。それはなかなか辛い経験だった。
(この項続く)
2012年1月24日火曜日
雪
たたみいわし雪の話にまた戻る 池田澄子
雪の日のポストが好きや見てをりぬ 國弘賢治
肉買ひに出て真向に吹雪山 金田咲子
俳句検索エンジンで「雪」を検索すると6000句以上出て来る。雪が好きな人が多いらしい。日本の人口の7割か8割くらい(もっと?)は雪のあまり降らない土地に住んでいるからかもしれない。僕も好きである。この年齢になっても、寒い朝外の音が静かだともしや雪かと思ってそっとカーテンを開けてみたりする。子どもと同じ。しかしたいていは雪ではない(そういう土地だから)。NHKの全国ニュースで、東京で雪が2センチ積もりましたとかいうニュースを延々と流しているのをみて「アホか」と思ったりするのは、公共の電波の無駄遣いに憤っているばかりではなくて、馬鹿騒ぎがどこか羨ましいのかもしれない。
どうしてこんなに雪が好きなのかと思う。お祭り的な感じかもしれない。空からしろいものが落ちてきて、日常的な景色がぱーーっと一面真っ白に塗り替えられてしまう、もういいよ、とりあえずリセット、雪なのにハレ、みたいな。子どもはお祭り好きだしね。
落ちてくる雪片ごとの昏さかな くろやぎ
雪の日のたくらみごとに出て行かん
2012年1月21日土曜日
それは象なのか
しばらく前に飯島晴子の句のことを書きかけたがいい加減にすませてしまった。忘れないうちにもう一度書いておこうと思う。
ツイッターに飯島晴子の句を囀るbotがいて、なぜかいつも鈴木真砂女のbotと一緒に句を囀る。どなたが選んでいるのか知らないがググッと来る句が多くて、いつもどこか摑まれる感じがしている。それで飯島晴子の句集を読みたいと思って図書館を探したところ、職場の隣の市の公立図書館に全句集があるようなので借りに行こうと思っている。寒くてまだ行っていないのだが。
その飯島晴子のbotが先日囀ったのが、「月光の象番にならぬかといふ」という句だった。月光の「象番」? なんだか気になるが、どうにも情景が浮かびにくい。「ならぬか」と云ふのは誰か? 月光? 象? どちらだとしてもイマイチな感じである。
なにか大切な、ほんたうのことが隠されていそうなのだが、それが見えてこない。映画の回想シーンか何かで超ソフトフォーカスの映像を使うことがあるが、ちょうどあんな感じ。暗い背景のなかで白っぽく照らされている大きな影。これが象? そのそばに人らしい影がいるのはわかる。が、それらの間に何が起こっているのか、全体に何がどうなっているのか、よくわからない。
それで象で切ってみた。「月光の象 番にならぬかといふ」。吃驚した。いきなり鮮明な情景が立ち上がる気がした。月光を浴びた象が真正面からこっちを見つめている情景が見える。人らしい影だと思ったのは自分自身だった。ぴたっと合わされた視線からどうしても逃れられなくて、立ち尽くしている強い感覚。
それでそのことをツイッターでぼそりと囀ってみたところ、お二人の方が、自分もそのように読んでいると囀り返してくれた。そのうえ、その情景とはこれではないかと絵(下)を見せて下さったり、それは歓喜天ですね、と教えて下さったりという展開になったのだった。
月光の象番にならぬかといふ 飯島晴子
げつくわうのざう つがひにならぬかといふ
伊藤若冲 「白象図」
ツイッターに飯島晴子の句を囀るbotがいて、なぜかいつも鈴木真砂女のbotと一緒に句を囀る。どなたが選んでいるのか知らないがググッと来る句が多くて、いつもどこか摑まれる感じがしている。それで飯島晴子の句集を読みたいと思って図書館を探したところ、職場の隣の市の公立図書館に全句集があるようなので借りに行こうと思っている。寒くてまだ行っていないのだが。
その飯島晴子のbotが先日囀ったのが、「月光の象番にならぬかといふ」という句だった。月光の「象番」? なんだか気になるが、どうにも情景が浮かびにくい。「ならぬか」と云ふのは誰か? 月光? 象? どちらだとしてもイマイチな感じである。
なにか大切な、ほんたうのことが隠されていそうなのだが、それが見えてこない。映画の回想シーンか何かで超ソフトフォーカスの映像を使うことがあるが、ちょうどあんな感じ。暗い背景のなかで白っぽく照らされている大きな影。これが象? そのそばに人らしい影がいるのはわかる。が、それらの間に何が起こっているのか、全体に何がどうなっているのか、よくわからない。
それで象で切ってみた。「月光の象 番にならぬかといふ」。吃驚した。いきなり鮮明な情景が立ち上がる気がした。月光を浴びた象が真正面からこっちを見つめている情景が見える。人らしい影だと思ったのは自分自身だった。ぴたっと合わされた視線からどうしても逃れられなくて、立ち尽くしている強い感覚。
それでそのことをツイッターでぼそりと囀ってみたところ、お二人の方が、自分もそのように読んでいると囀り返してくれた。そのうえ、その情景とはこれではないかと絵(下)を見せて下さったり、それは歓喜天ですね、と教えて下さったりという展開になったのだった。
月光の象番にならぬかといふ 飯島晴子
げつくわうのざう つがひにならぬかといふ
伊藤若冲 「白象図」
2012年1月19日木曜日
2012年1月18日水曜日
股間
早乙女の股間もみどり透きとほる 森 澄雄
冬蝶を股間に物を思へる人 永田 耕衣
天井や股間にぬくき羊水や 池田 澄子
獣の股間の乳房秋暑かな 長谷川 櫂
雪国のきれいな股間思ひ寝る 矢島 渚男
最近、ようやく(と言うか何というか)俳句を読むのが面白くなってきた気がする。その反動だからなのかなんなのか、自分では全然句が作れない。僕が作る句などどうでもよいといえばその通りなのだが、それは〈他人にとって〉どうでもよいだけであって、自分自身にとっては作ることに意味はある。他人に見せるとか自分を表現するとかと、そういうことではなくて、作ること自体に意味はある。それで、いまはそういう時期ではないらしい。
「股間」という、時として劣情と結託しそうな語彙を俳人諸兄姉がどのように使っているのか並べてみた。なかなか興味深い。森澄雄の句は爽やかである。爽やかであるがしかしほのかに劣情の調味料が振りかけられていて、それが隠し味になっている。矢島渚男の句もそうである。いやこちらの方はより直截で、隠し味どころではないのかもしれない。長谷川櫂の句はどうか。こちらは森、矢島的な使い方ではない。大衆の劣情と結託する素振りは全くない。股間という言葉をここに入れることで獣のケダモノ性というか生々しさがいきり立っている。ただ逆にその上手さによって、別種の「劣情」(劣情カギカッコ付き)に近づいている気がしないでもない。池田澄子もカギ括弧付きだが更にもうひとひねりしてあって……。考え出すときりがない。考えるのを止めると、やはり上手いと思う。永田耕衣の句は劣情からも「劣情」からも遠いところにいる気がする。
股間股間股間又股間又又股間 くろやぎ
2012年1月16日月曜日
階段
階段が無くて海鼠の日暮かな 橋 閒石
空へゆく階段のなし稲の花 田中 裕明
最初に閒石句を読んだ時、それより以前に読んでいた(成立は後だが)裕明句に引きずられて読んでいたと思う。だいぶ後になって、そのような読み方は、(おそらく裕明句より先に閒石句を知ったのであろう)多くの人達とは全く異なっているらしいということに気づいた。
「否定形」というものの重要性、使い方に気付かされたのが田中裕明の階段の句だったから、閒石の句を見たときもそれ以外の読みは自分には想像つかなかったのだと思う。
それで、僕流の読み方では、〈二階建てなのに階段がない家〉などという無理なものは想定しない。そもそも階段があるべき景ではないのだ。「もしここに階段があったら……」という夢想があって、それを否定形によって表現していると読んだ。この場所は家の中である必要すらなくて、はっきり言って海辺だと思う。
ようするにこれは「(空へゆく)階段が無くて海鼠の日暮かな」ということではないのか。田中裕明が稲の花咲く水田の上空に夢想したのと同じような、まぼろしの長大な階段が海辺から空に昇っていくのが見えたのではないだろうか。実際には存在しないその階段がもしあれば、海鼠らは……
そういえば、海鼠は太古に火星からやって来た帰化生物ではないかという説をウェブだかツイッターだかで読んだ憶えがある。きっとそういうことだとおもっている。
それはもう一人もゐない國でした くろやぎ
2012年1月15日日曜日
2012年1月13日金曜日
意味
さびしくて一日早く咲いてしまう 広瀬ちえみ
ぽつねんと咲いているので帰れない
これらの句を比喩だと思ってしまうとつまらない。文字通りに、淋しくて予定より早く咲いてしまった花、一輪だけ咲いて家に帰れない花のつぶやきだと思う。おもしろい、切ない。何かを思い出しそうになる。何だろうか。思い出せない。
この家の温度になってゆく私
季節は書いてない。しかしなぜか、冬だろうかと思う。
あと一本映画を観たら散る時間
楽しかった半券だけが残される
さらわれる期待 小さな舟が来る
真っ青な危ない空があるばかり
私の話だが、離人症というのか、ときどき事物の意味が薄れかけて、世界が真っ白に感じられそうになることがある。ちょっとヤバイと自覚しているので、そういうときは意識的に楽しいこととかを考えてみるようにしている。実は、「楽しいこと」よりももっと効果があるのは「憤ろしいこと」で、何か(というか、誰か)考えただけで憤懣ヤルカタナイと発憤できる対象を思いつくことができると、治癒する。
逆に、本来意味のない日常の見慣れた光景、ありふれた事物に意味をみいだしてしまう《病》というものもあるのかもしれない。「真っ青な空」に「危ない」という意味をみいだしてしまう病は、私のものでもあると気付く。意味をみうしなうことと意味をみいだしてしまうことがどちらも脳のエラーだとして、それらはすごく近しいこと ––– じつはほとんど同じことなのではないか。
ぽつねんと咲いているので帰れない
これらの句を比喩だと思ってしまうとつまらない。文字通りに、淋しくて予定より早く咲いてしまった花、一輪だけ咲いて家に帰れない花のつぶやきだと思う。おもしろい、切ない。何かを思い出しそうになる。何だろうか。思い出せない。
この家の温度になってゆく私
季節は書いてない。しかしなぜか、冬だろうかと思う。
あと一本映画を観たら散る時間
楽しかった半券だけが残される
さらわれる期待 小さな舟が来る
真っ青な危ない空があるばかり
私の話だが、離人症というのか、ときどき事物の意味が薄れかけて、世界が真っ白に感じられそうになることがある。ちょっとヤバイと自覚しているので、そういうときは意識的に楽しいこととかを考えてみるようにしている。実は、「楽しいこと」よりももっと効果があるのは「憤ろしいこと」で、何か(というか、誰か)考えただけで憤懣ヤルカタナイと発憤できる対象を思いつくことができると、治癒する。
逆に、本来意味のない日常の見慣れた光景、ありふれた事物に意味をみいだしてしまう《病》というものもあるのかもしれない。「真っ青な空」に「危ない」という意味をみいだしてしまう病は、私のものでもあると気付く。意味をみうしなうことと意味をみいだしてしまうことがどちらも脳のエラーだとして、それらはすごく近しいこと ––– じつはほとんど同じことなのではないか。
2012年1月11日水曜日
それはペンですか
前頭葉のちよつとうしろにゐる何か くろやぎ
ハムスターじゃね。
たとえば映画のあのシーンこのシーンについて《意味》を読み取ったり読み取れなかったりするということがある。おかげで、そういうことをうだうだ文章に書くと「評論」というものになる(らしい)。ひるがえってゲンジツの世界で眼にうつるあのシーンこのシーンには《意味》がない。
物理的な世界で物理的な眼球が光学的かつ生理学的に写しとるシーンは何かを寓意しているわけではないし何かの伏線でもない。世界はどこかの監督の撮った映画ではないからである。たとえばふと見上げた天井の電球が切れていたとして、そこに《意味》はない。ないはずである。……
ところが、
電球はあんなに高く切れており 広瀬ちえみ
である。ううむ、なんも言えねぇ。
2012年1月10日火曜日
2012年1月9日月曜日
棒
棒一本立ったまま死ねない冬だ くろやぎ
関 悦史の「六十億本の回転する曲がった棒」という句集を読んでいる。この句集は読者 ––– ここでは、すなわち僕自身のことである ––– をして、前へ前へと読み進めさせるちから(英語の意味として正しいかどうか知らないが、個人的には文章のもつそのようなちからを readability と呼んでいる)が異様に強い。この readability は句集のそれではなく、小説のそれにとても似ていると思う。
一般論めいたことが言えるほど句集というものを沢山読んでいるわけではないのだが、読んだことのある句集について言うかぎり、必ずしも前後の繋がりが強いわけではない句が、よくいえば一句一句屹立した状態で並べられていて、読み手としての僕は、鉛筆を片手に、これはよい、これはちょっと、とぽつりぽつり印を付けながら読む、句集とはそういうものだと思っていた。
ところが、この「六十億本」はそれらとは逆だ。この句集、百句前後からなるあるテーマの下に書かれた句の塊が、句集としてはたぶん破格の一頁八句という高密度で詰め込まれている。普通の句集であれば、二三頁も読めばうんざりしはじめているわたくしがそこにいるのであるが、この句集についてはそういうことが全くない。あえて自分を鼓舞せずともどんどん読める。六七百句ほどの句を小一時間の通勤電車で一通り読んでしまい、読んだあとで、気になった塊ごとに、また最初からこんどはじっくりと、それも_塊として_、読み返している。この読書体験はやはり小説、それも良質な短編連作集に近いものであるように思う。
その一方で、この句集、一句一句の「屹立感」は薄い。一句が一句であることを主張していない、というか。作者として、個々の句に一句としての完結を追求していないのではないのだろうか。いろいろな要素を組み合わせ繋ぎ合わせている句が多いのだが、一句としてではなく、ある大きさの句の塊としてはじめて読み物たりうることを狙っているのではないか。
そのことが小説的な readability に繋がっているのだと思っている。
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