2013年5月27日月曜日

尽くす人


筍飯海路遙かに来たりけり

筍飯時に真実受け容れがたく

三光鳥やにはに水の匂ひして

小満の摑まり易き吊り輪かな

小満や仔猫の糞も匂ふなり

観念重たし夏蜜柑は枝のうへ

新月へと放り上げたは夏蜜柑

蜘蛛の囲にペルシアの王をふと見たり

蜘蛛の囲や真っ青な空に鳥がいない

蜘蛛の囲や蜘蛛も逃げるを許されず



「兼題」に引き続き、夏井いつきさんの一句一遊と俳句ポスト365に投句した句から。「縮こまっているような」と書いたが、それは要するに、具象的な季語(芹、種蒔き、蚕、鯉幟、粽、筍飯、三光鳥……)の兼題に対して、どうしたらいいものかと戸惑っていたのだと思う。

考えてみると(考えてみるまでもなく)、これまでは、言葉が2,3個繋がった瞬間に詩の切れ端みたいなものがまずできて、そこに、どうかすると、冬の太陽とか夏の月とかいう、言葉としての存在感の弱い季語が入り込む、という作り方をしてきた。

ところが、兼題で投句を始めてからやっていることはまさに正反対で、具象性の強い季語を出発点にして、それをどうやって生かすかと考えている。その結果として何が起きているかというと、拾い上げてくる言葉の範囲を自分で狭めている。それで、前回挙げた句や今回の句のいくつかのような縮こまった感じ(自分の「感じ」なので、他人からは違った「感じ」かもしれないが)になってしまうのだと思う。一生懸命に季語に尽くしている感じ。

相手のためと思って一生懸命に尽くしても、それは必ずしも相手のためにならないということはよくある話で…… それで、考えを改めることにした。最近では、季語をやっつけてやろう、とっちめてやろう、と思っている。いるのだが、さてさて敵も然る者。(いや、敵じゃないんだけど)

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