2013年5月29日水曜日
2013年5月27日月曜日
尽くす人
筍飯海路遙かに来たりけり
筍飯時に真実受け容れがたく
三光鳥やにはに水の匂ひして
小満の摑まり易き吊り輪かな
小満や仔猫の糞も匂ふなり
観念重たし夏蜜柑は枝のうへ
新月へと放り上げたは夏蜜柑
蜘蛛の囲にペルシアの王をふと見たり
蜘蛛の囲や真っ青な空に鳥がいない
蜘蛛の囲や蜘蛛も逃げるを許されず
「兼題」に引き続き、夏井いつきさんの一句一遊と俳句ポスト365に投句した句から。「縮こまっているような」と書いたが、それは要するに、具象的な季語(芹、種蒔き、蚕、鯉幟、粽、筍飯、三光鳥……)の兼題に対して、どうしたらいいものかと戸惑っていたのだと思う。
考えてみると(考えてみるまでもなく)、これまでは、言葉が2,3個繋がった瞬間に詩の切れ端みたいなものがまずできて、そこに、どうかすると、冬の太陽とか夏の月とかいう、言葉としての存在感の弱い季語が入り込む、という作り方をしてきた。
ところが、兼題で投句を始めてからやっていることはまさに正反対で、具象性の強い季語を出発点にして、それをどうやって生かすかと考えている。その結果として何が起きているかというと、拾い上げてくる言葉の範囲を自分で狭めている。それで、前回挙げた句や今回の句のいくつかのような縮こまった感じ(自分の「感じ」なので、他人からは違った「感じ」かもしれないが)になってしまうのだと思う。一生懸命に季語に尽くしている感じ。
相手のためと思って一生懸命に尽くしても、それは必ずしも相手のためにならないということはよくある話で…… それで、考えを改めることにした。最近では、季語をやっつけてやろう、とっちめてやろう、と思っている。いるのだが、さてさて敵も然る者。(いや、敵じゃないんだけど)
2013年5月19日日曜日
夏蜜柑
永田耕衣に、
夏蜜柑いづこも遠く思はるる
という句があって、とても好き。解釈とか具体的情景とか、そういうことは考えたことがなくて、ただ、ああそういうものだなあと思うだけでとにかく好きな句だった。それが、先日、夏蜜柑で何か句を作ろうと思い立って、しかし夏蜜柑の句といえば去年沢山作ったのでなかなか出てこない、それで耕衣のこの句をぼんやり眺めていた。その時のことである。
なんとはなしに、夏蜜柑を外して中下だけで眺めてみた。
いづこも遠く思はるる
あーっ!と思った。思い当たることがあったのである。
かつて、外出中に急に「周囲の世界が意味を失ってしまった」と感じられることが続いたことがある。気になってものの本で調べたところ、どうも、離人症的な症状の一種で、現実感喪失とか疎隔とか言われる現象らしい。ここの説明によると、現実感喪失とは、「外的世界の知覚または体験が変化して、それが奇妙に、または非現実的に見えること」であって、「具体的には、自分の家などなじみの場所を知らない場所のように感じる、家族や友人がよそよそしく、知らない人のように、ロボットのように見える」などがあるとのことで、なじみの場所であっても知らない場所のように感じる、というあたりはまさにソレソレ!という感じである。
それで、耕衣句の「いづこも遠く思はるる」は、そのまんまだと思った。まさに文字通り医学書から引用してきたような表現ではないか、ということは、ひょっとするとこの句を作った耕衣は僕と同じような現実感喪失の感覚を持っていたのではないか、と想像したというわけである。
それで話はつづいて、これにあらためて上句の「夏蜜柑」をつけてみる。
夏蜜柑いづこも遠く思はるる
すると、なんということでしょう。医学書そのままの症状記載であったものが、詩に戻る。
なるほど、と思った。これは、夏蜜柑の色とか酸っぱさとかそういう鮮烈な実在感が、現実感を失いかけている作中主体を現実に繋ぎ止めている、そういう句ではないかと分かった気がしたのである。分かった気になった頭の中には絵が浮かんでいて、風に吹き飛ばされそうになっている人物(これは白黒の輪郭線だけで描かれている)が夏蜜柑(これは天然色)に両手でしがみついているのである。イラストに描いて載せればよいのだが、絵心の持ち合わせがない。ともかく、他の人にとってどうなのかはわからないが、僕にはすごくリアルな理解に至ったと思っている。
もし今度また現実感喪失に襲われたら、この夏蜜柑にしがみついてみることにする。
夏蜜柑いづこも遠く思はるる
夏蜜柑いづこも遠く思はるる
という句があって、とても好き。解釈とか具体的情景とか、そういうことは考えたことがなくて、ただ、ああそういうものだなあと思うだけでとにかく好きな句だった。それが、先日、夏蜜柑で何か句を作ろうと思い立って、しかし夏蜜柑の句といえば去年沢山作ったのでなかなか出てこない、それで耕衣のこの句をぼんやり眺めていた。その時のことである。
なんとはなしに、夏蜜柑を外して中下だけで眺めてみた。
いづこも遠く思はるる
あーっ!と思った。思い当たることがあったのである。
かつて、外出中に急に「周囲の世界が意味を失ってしまった」と感じられることが続いたことがある。気になってものの本で調べたところ、どうも、離人症的な症状の一種で、現実感喪失とか疎隔とか言われる現象らしい。ここの説明によると、現実感喪失とは、「外的世界の知覚または体験が変化して、それが奇妙に、または非現実的に見えること」であって、「具体的には、自分の家などなじみの場所を知らない場所のように感じる、家族や友人がよそよそしく、知らない人のように、ロボットのように見える」などがあるとのことで、なじみの場所であっても知らない場所のように感じる、というあたりはまさにソレソレ!という感じである。
それで、耕衣句の「いづこも遠く思はるる」は、そのまんまだと思った。まさに文字通り医学書から引用してきたような表現ではないか、ということは、ひょっとするとこの句を作った耕衣は僕と同じような現実感喪失の感覚を持っていたのではないか、と想像したというわけである。
それで話はつづいて、これにあらためて上句の「夏蜜柑」をつけてみる。
夏蜜柑いづこも遠く思はるる
すると、なんということでしょう。医学書そのままの症状記載であったものが、詩に戻る。
なるほど、と思った。これは、夏蜜柑の色とか酸っぱさとかそういう鮮烈な実在感が、現実感を失いかけている作中主体を現実に繋ぎ止めている、そういう句ではないかと分かった気がしたのである。分かった気になった頭の中には絵が浮かんでいて、風に吹き飛ばされそうになっている人物(これは白黒の輪郭線だけで描かれている)が夏蜜柑(これは天然色)に両手でしがみついているのである。イラストに描いて載せればよいのだが、絵心の持ち合わせがない。ともかく、他の人にとってどうなのかはわからないが、僕にはすごくリアルな理解に至ったと思っている。
もし今度また現実感喪失に襲われたら、この夏蜜柑にしがみついてみることにする。
夏蜜柑いづこも遠く思はるる
2013年5月12日日曜日
2013年5月11日土曜日
癌
癌病めばもの見ゆる筈夕がすみ 相馬遷子
片蔭の生るゝごとく癌うまる 加藤かけい
癌病めばものみな遠し桐の花 山口草堂
また夜が来て花冷えの癌病棟 竹鼻瑠璃男
みこまれて癌と暮しぬ草萌ゆる 石川桂郎
おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒 江國滋
癌癒えてよりの歳月冷奴 添野かよ
癌は英語でcancer、蟹座もCancerである。なんでかな、とずっと思っているのだが、まだ調べてない。
日本では半分以上の人が最後には癌で死ぬことになっているので、癌を患うというのは実はそれほど珍しい体験ではないのだが、体験中は結構どきどきしたりするものである。飛び箱12段に向かって助走している最中くらいのどきどき感がずうっと持続する、みたいな。よって、癌を詠んだ句は結構たくさんある。自分の癌を五七五に詠んで季語を添える、という行為はどんな感覚を伴うものなのかと思う。
上に挙げた何句かのうち最初の相馬遷子の句は、なにか突き放したようなところがある。遷子は医師として多くの癌患者を診たのちに、自身も癌を得て二年の闘病生活の末に亡くなった。上の句は発病以前のようにも見えるが、実際は発病後の句であるらしい。
2013年5月8日水曜日
レース
夏井いつきさんが松山のラジオでやっている毎日10分間の俳句番組というのがあって、それは視聴者、じゃない聴取者、今風に言えばリスナーの投句を募っていることを教えてもらった。で、愛媛の放送局なので聞くことはできないのだが、驚いたことに、毎日の放送をリスナーが勝手に文字に起こしてその日のうちにネットの掲示板に掲載している。放送局も知っているはずだがとやかく言わないのが偉い。おかげで日本中、世界中どこにいても文字で毎日の放送を読むことができる。インターネットの正しい使い方。
一つの兼題で週5日の放送だが、構成が上手で、月、火、水、木、金と別々のドラマがあり、読んでも面白い。それでおもわず投句してみようと思い立った。立ったのだが、実は兼題が難しい。粽、三光鳥、筍飯、レース、と来た。粽? 子どもの頃に食べた覚えはない。なので、全然イメージが湧かない。かろうじて数年前に実家に帰ったときのことを思い出したので句にした。思いはある。が、俳句としてはベタである。おつぎ、三光鳥。これはさらに厳しい。インターネットの(正しいかどうかわからないが)便利な使い方の一つであるところのユーチューブで映像を漁って、そういえばこれはジュビロのマスコットだ、などと思いつつ、その中のある映像のイメージででっち上げた。なんとなくけしからん感じの作り方である。せめて動物園にでも見に行けよ、という感じである。まあしかし兼題だから、と自分を誤魔化す。次は筍飯。これは好き、オッケー。といいつつ、これまで筍飯で俳句を作ろうなどと思ったことはないことに気が付く。いつのまにか夏井いつきに洗脳されているのか俺、などとうじうじする間もなく、次はレース。ええと、夏の季語でレースっていうとボートレースのことかな、と思いつつ角川歳時記をひもとくと、編むレースのことらしい。
ううむ、これは厳しい。レースを編んだことないし、レースを編む人を周りで見たことも多分ない(一切記憶にございません、というのは覚えているのに忘れたふりをするときに使うセリフらしいが、ホントに記憶にない。)。どっからどう攻めてみてもなんのイメージも湧かない。レースのカーテンでも良いらしいが、レースのカーテンにどうこうという思いがでてこない。ううむ、こまった。試練の時である。
レース編む夜とぶ鳥を思ひつつ 柴田佐知子
慢性的愛やレースのカーテンや 池田澄子
柴田さんの句は角川歳時記の例句に挙げられていた。愛の2句。入り込む隙がないではないか。
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