2012年3月29日木曜日

結節点


結節点てまあ結び目のことです。交通結節点という用語があって、たとえば日本にはJRという交通機関があって日本中を網の目のように走っておるわけです。で、JRで日本中どこへでも行けるというのはJRの標語としては正しいのですが、本当は正しくなくて、JRはJRの線路の上にしかいけないわけです。

ところがJRには駅というものがあって、私鉄に乗り換えることができたりするわけです。さらに駅前広場というのがあります。駅前広場にはバス停があって、タクシー乗り場があって、自家用車の駐車場がある。市電があるところもあるし、モノレールがあるところもある。そういうわけで、JR以外の交通機関に繋がっている。その繋ぎ目というか結び目である駅とか駅前広場とかをひとまとめにして交通結節点というわけです。

それで、まあ思うわけですが、俳句というのがJRだとして、季語は結節点だと。俳句の17音で表される字面の世界を外界に繋ぐのが季語の働きではないか、ということです。標語的に言えば、季語によってただの17音だけでは到達できない場所へ行くことができる、と。

それで、同時に思うわけです、結節点の働きをするのは、季語だけではないのではないか、と。むかし、地名を詠み込んだ俳句には季語は必要ないんだとか、芭蕉だかが言ったそうですが、それは地名(とくに、有名な地名)には季語と同様に結節点としての働きがあるからではないか、と思うわけです。

要するに何を言いたいかというと、理屈としてはそういう可能性があるけれども、理屈でなくてそういうことが実際可能なのかどうなのか試してみなくてはならない。そう思ってはじめたのが、「さきつちよ」句なわけです(これとかこれとか)。ネタばらしみたいなことをするのはどうかとも思いますが、まあ、このブログは何年後かの自分に向けての備忘録みたいなものだから書いておくことにしました。で、なぜ「さきつちよ」か、というのも実はへりくつがあるわけですが、それはまたいつか。

まあしかし根が好い加減な性格だから、「さきっちょ」と(普通の意味での)季語が共存した句もぽろぽろつくってしまっているわけですが……

ほんたうはみづになりたいさきつちよは



2012年3月28日水曜日

世界最小の定型詩


二一二俳句というのを以前ツイッターで見掛けて、二三作ってみたがさっぱり面白くなくて、その時はすぐにやめた。かわりに三五三というのを考えて、これは面白かったが、作るのは相当に難しい。上手な人が作れば面白いのではないかと思う。

鴉鳴きもせず日暮れ

意識消えてゆく椿

二一二をまた作ってみようと思って、今度は何日か続けて作っている。そうしていると、だんだん何か見えてくるというか分かってくる(ような気がする)から不思議なものである。

世界最小の定型詩ですね(多分)。

のにはがもで


傘の春

箱の春

そこに鎌

そこは鎌

そこが鎌

海栗が兄

仮りに人

車庫が夏

雲に鶏

虹は見栄

西に蜂

牛が馬鹿

馬鹿も丑

滝の意地

空も鬱

犬が泣く

耳が哭く

玻璃が啼く

紙が鳴く

雨が聴く

禄で梨

冬 the ルル

2012年3月20日火曜日

志村先生


中学の時に国語を教わった志村先生は私にとって生涯でもっとも影響を受けた先生だが、その志村先生は古文がお嫌いで(ご自分でそう言っていた)、そういうわけで僕は古文に興味を持たないままに小中高を過ごした。しかも大学は理系だ。その僕が古文の文法に関することを書こうというのだから、図々しいにもほどがある。

吾家の燈誰か月下に見て過ぎし  山口誓子

少し前の増殖する俳句歳時記でこの句が取り上げられていた。句意の取り方について難しいことが書かれていたのだが、私のかぎられた古文の知識(というか、知識と言えるほど体系化されていない。勘に近いかも。)にしたがえば、「か(疑問の係り助詞)〜連体」(係り結び)と読みとって、「我が家の灯りを月下に見て過ぎていったのは誰だろう?」という程度の意味に読むのだろうと思った。

それで、そのことをメモしたときに、そういえば俳句でよく使われる「連体止め」ってこれか、と疑問に思ったのである。

吾狙ふ草矢のどれも届かざる 北前波塔

こういう連体止めは多い。京都の言葉で「大根のたいたん」と言えば木星の衛星のことではなくて、「大根の炊いたもの」ということであって、これは連体止めではない。連帯止めにすると「大根の炊きたる」。連体止めは連体形であるから、その後に体言が省略されている。体言はどこかと探すと「大根」しかない。すなわち「炊きたる大根」。

波塔句をその要領で読むと、「届かざる」は「草矢」に係っている。古文の係り結びで言えば「草矢ぞどれも届かざる」となるところで、係助詞の「ぞ」を「の」に置き換えているように読める。そういうふうに読むと、ごく自然に意味がとれる。

極月の投石水に届かざる 宇多喜代子

係助詞の代理の「の」が省略されていると見ることもできる。が、「極月の投石ぞ水に届かざる」としてみると、なんとなく落ち着かない。前句では「草矢」に強意があるが、この句では「投石」よりも「届かず」に強意があるのではないか。だから係り結びの発展型と読みにくい。

それで、係り結びとは切り離して、単に文末の連体形が文頭の名詞句を修飾している、言い換えると「水に届かざる極月の投石」を単に主述反転しただけと読んでみる。それなら形式的には係り結びと同じようなものだが、反転した結果、「投石」から「届かず」に強意が移ってしまうところが違う。しかし、「届かざる」が連体形だから、自然とその修飾先の体言を文中に探してしまい、「投石」に戻る。

そのようにみると、これは 英語の詩で多用される「名詞句+現在分詞句の形容詞的用法」と同じ効果を持つのではないかと思われる。たとえば、この句。

icy rain drawing the man within   Marlene Mountain

drawing〜の分詞句は形容詞的にrainを修飾している(私のなかの男を流してゐる氷雨)。rainの後に is を入れても意味としてはほとんど同じ(氷雨が私のなかの男を流してゐる)。実際、日本語訳する時は、isがあるかのように訳すのが普通だと思う。しかし、この句に限らず、英語の句では、現在分詞の形容詞的用法が多用される。たとえばケルアックの有名な句。

Useless, useless,
the heavy rain
Driving into the sea.     Jack Kerouac
(無駄だ、無駄だ / 激しい雨 / 海に叩き付けてゐる)

これはなぜか。

英語でも日本語でも、文章は一本道で、最初から順番に単語を追って最後まで行くしかない。ベクトルは必ず最初から最後に向かう。日本語と英語では構成要素の並べ方が違うが、いずれにしても最初から最後に一本道で読んで行けば意味がすーっと入るようになっている。では、なぜ is を入れないのか。icy rain is drawing the man within. とすれば一本道で意味は完結するのに。

逐語的に読んでみる。icy 氷みたいな、rain 雨(ここまでよし)、drawing 流す(ここで is とか was とか falls とかの動詞が来ていないことで、ここから形容詞的な分詞句が始まることがわかる。分詞句の全容はいまのところ分からないので、被修飾語 rain を頭の片隅に置いておく。でも無意識にis を補っている)、the man あの男、within あたしの中の。その瞬間に意味は完結。全て終わり、もしそこに is があれば。しかし実際には is は無かった。ここで被修飾語にむかっての遡行が始まる。形式を確定するためだけの遡行。それによって停滞が生まれる。意識は一本道を行ったきりにならず、再び上流に戻る。遡行によって詩が生まれる。

こう整理してみると、英詩における現在分詞の形容詞用法と、俳句の「〜〜の〜〜連体止め」とは、ほとんど同じ働きをしているように見える。文頭から文末までを一本道で読ませず、遡行を誘導する仕掛け。極月の投石水に届かざる投石水に届かざる投石水に……

水槽にかさなるいもり暮れかぬる 宮坂静生

でも、こんなのになると困る。「暮れかぬる」が水槽にかかっているのかいもりにかかっているのか、考えてみる。どっちも変なので、別に名詞が省略されているのかとも思う。こういう、「困ってしまう」連体止めは時々見かけるように思う。

2012年3月17日土曜日

他人事


春の雪ひとごとならず消えてゆく 久米三汀

また雪が降るひとごとのように降る 石川青狼

目刺焼くラジオが喋る皆ひとごと 波多野爽波


ひとごとや打つ鞭ことごとくS字



全然関係ないが、映画の一シーンだと思うけど、何の映画か思い出せない映像が脳に浮かんで、消去しようとしてもなかなか消せないことがあるわけです。ずっとリピート再生され続けている。人と話している間も、こうして駄文を弄している間も。そういう映像って、なんか定型化、様式化されているようなところがあって……


これもまた全然関係ない話ですけど、裁判官の人とかいるじゃないですか、あのひとたちって、原告にしても被告にしても感情移入しないわけですよね、っていうか、感情移入しないように徹底的に訓練されている。法律の枠組みにしたがって、どの要件とどの要件を満たすから不法行為、これが欠けてるからそうじゃない、とか判断するわけですよね。そのときに、この人はすごくつらそうで可哀想だから相手が悪いに違いない厳しくしとこう、とか、そういうふうに感情移入しちゃうとある意味公平じゃないから、そういうことがないように訓練するわけで。それってすごいことだと思うわけです。つらそうで可哀想な人には感情移入するのが、ふつうの人間としては、ある意味で当たり前のことなわけですよね。でもそれはしちゃいけないわけです、かれらは。超人的っていう言葉はふつうは全然べつの意味で使うわけですが、ある意味で裁判官の人たちのそういう訓練っていうのは、超人=人を超えた存在になるための訓練なわけじゃないですか、ええ。


それでこれもまた関係ない話ではあるのだが、そういう訓練なんて全然受けていないのに、それに近いような判断を迫られる場面があるのであるわけです。はあ、つらい。

2012年3月15日木曜日

ノート


こはくない、ただまっ白な紙だから


今朝、目が覚める直前に何か忘れているような気がして、はっとして目が覚めた瞬間にその「はっ」のことを忘れたが、さっき会議でうつらうつらして寝落ちしそうになった瞬間に突然思い出した。三月の春愁に沈んでいるあいだ、このブログのことを忘れていたのだった。

閑話休題。忘れないでおこうと思ったことを、ノートか何かに書いておくと、ノート自体をすぐに失くしてしまうので、失くさないようにグーグルのお力を借りることにして、このブログを始めたのだった。だから、こんなどこかの日記にあるようなどうでもよいことを書いている場合ではない。

それで本論に入る前に、もう少し正確に書いておくと、ノート方式がダメなことがよおく分かったので、紙の物理媒体であるところのノートの代わりとして、電子的なクラウド媒体としてのツイッターを使おうと思いたったのだった。しかし、ちょっと使ってみると、ツイッターは、失くさないようにと書いたはずのメモが、いつのまにか、日々のささやかな囀りの集積に埋もれてしまって、あとから掘り起こすのが大変になる、ということがわかった。ということでツイッターでは、俳句のようなものを書き散らすことになったのだった。

そうすると今度は、その俳句のようなものについて何か書いておきたい気がして、でもそれを俳句のようなものと一緒に書くと埋もれてしまうので、それならということで、囀り以外用のアカウントというのを作ってみたのだったが、それもいつのまにかごちゃごちゃしてしまったので、少し整理しようと思ってブログを始めたのだった。

それでもうこんなことを書いている場合ではないのだが、忘れないうちに書いておくと、その囀り以外用のアカウントというのは、鍵も何もかけていないのだが、なぜか誰もフォローしてくれないのである。なるほど、ツイッターというのはそういうものか、と何かだいじなことが分かったような気がしている。本当はたいして大事なことではない。

ええと、何を書こうとしていたんだっけ。

そうだ。思い出した。これだ。

「文化は、普通そうは考えられてないけれども、危機、クライシスに直面する技術であるということね。」 山口昌男

山口昌男はむかし「知の遠近法」とかが流行った頃に何冊か読んでその後ずっとご無沙汰している。最近20年くらいの間にどういうことを言っているのかは全くしらない。上に引用した言葉もじつは山口昌男の本かなにかから直接引用しているわけではなくて、大江健三郎が何かで書いていたのを忘れないでおこうと思って、ツイッターにメモしておいたものである。わたくしのツイッターのお気に入りの一番最初のところにあったのをさっき見つけ出したのである。この発言、あたかも去年か今年のもののように見えるが、わたくしのメモが2009年である。山口の発言自体はもっと以前のものだろう。

それで、この言葉の前後の文脈は全くわからないのだが、危機に直面したときに大切なのは、政治とか科学技術とかそういう即物的な道具だけではないよね、という話。その時もハッとしたのだが、さっきあらためてハッとさせられたのである。どうせまた忘れるので、次にまたここを読み返してあらためてハッとするために何度でも書くのである。