2012年3月20日火曜日

志村先生


中学の時に国語を教わった志村先生は私にとって生涯でもっとも影響を受けた先生だが、その志村先生は古文がお嫌いで(ご自分でそう言っていた)、そういうわけで僕は古文に興味を持たないままに小中高を過ごした。しかも大学は理系だ。その僕が古文の文法に関することを書こうというのだから、図々しいにもほどがある。

吾家の燈誰か月下に見て過ぎし  山口誓子

少し前の増殖する俳句歳時記でこの句が取り上げられていた。句意の取り方について難しいことが書かれていたのだが、私のかぎられた古文の知識(というか、知識と言えるほど体系化されていない。勘に近いかも。)にしたがえば、「か(疑問の係り助詞)〜連体」(係り結び)と読みとって、「我が家の灯りを月下に見て過ぎていったのは誰だろう?」という程度の意味に読むのだろうと思った。

それで、そのことをメモしたときに、そういえば俳句でよく使われる「連体止め」ってこれか、と疑問に思ったのである。

吾狙ふ草矢のどれも届かざる 北前波塔

こういう連体止めは多い。京都の言葉で「大根のたいたん」と言えば木星の衛星のことではなくて、「大根の炊いたもの」ということであって、これは連体止めではない。連帯止めにすると「大根の炊きたる」。連体止めは連体形であるから、その後に体言が省略されている。体言はどこかと探すと「大根」しかない。すなわち「炊きたる大根」。

波塔句をその要領で読むと、「届かざる」は「草矢」に係っている。古文の係り結びで言えば「草矢ぞどれも届かざる」となるところで、係助詞の「ぞ」を「の」に置き換えているように読める。そういうふうに読むと、ごく自然に意味がとれる。

極月の投石水に届かざる 宇多喜代子

係助詞の代理の「の」が省略されていると見ることもできる。が、「極月の投石ぞ水に届かざる」としてみると、なんとなく落ち着かない。前句では「草矢」に強意があるが、この句では「投石」よりも「届かず」に強意があるのではないか。だから係り結びの発展型と読みにくい。

それで、係り結びとは切り離して、単に文末の連体形が文頭の名詞句を修飾している、言い換えると「水に届かざる極月の投石」を単に主述反転しただけと読んでみる。それなら形式的には係り結びと同じようなものだが、反転した結果、「投石」から「届かず」に強意が移ってしまうところが違う。しかし、「届かざる」が連体形だから、自然とその修飾先の体言を文中に探してしまい、「投石」に戻る。

そのようにみると、これは 英語の詩で多用される「名詞句+現在分詞句の形容詞的用法」と同じ効果を持つのではないかと思われる。たとえば、この句。

icy rain drawing the man within   Marlene Mountain

drawing〜の分詞句は形容詞的にrainを修飾している(私のなかの男を流してゐる氷雨)。rainの後に is を入れても意味としてはほとんど同じ(氷雨が私のなかの男を流してゐる)。実際、日本語訳する時は、isがあるかのように訳すのが普通だと思う。しかし、この句に限らず、英語の句では、現在分詞の形容詞的用法が多用される。たとえばケルアックの有名な句。

Useless, useless,
the heavy rain
Driving into the sea.     Jack Kerouac
(無駄だ、無駄だ / 激しい雨 / 海に叩き付けてゐる)

これはなぜか。

英語でも日本語でも、文章は一本道で、最初から順番に単語を追って最後まで行くしかない。ベクトルは必ず最初から最後に向かう。日本語と英語では構成要素の並べ方が違うが、いずれにしても最初から最後に一本道で読んで行けば意味がすーっと入るようになっている。では、なぜ is を入れないのか。icy rain is drawing the man within. とすれば一本道で意味は完結するのに。

逐語的に読んでみる。icy 氷みたいな、rain 雨(ここまでよし)、drawing 流す(ここで is とか was とか falls とかの動詞が来ていないことで、ここから形容詞的な分詞句が始まることがわかる。分詞句の全容はいまのところ分からないので、被修飾語 rain を頭の片隅に置いておく。でも無意識にis を補っている)、the man あの男、within あたしの中の。その瞬間に意味は完結。全て終わり、もしそこに is があれば。しかし実際には is は無かった。ここで被修飾語にむかっての遡行が始まる。形式を確定するためだけの遡行。それによって停滞が生まれる。意識は一本道を行ったきりにならず、再び上流に戻る。遡行によって詩が生まれる。

こう整理してみると、英詩における現在分詞の形容詞用法と、俳句の「〜〜の〜〜連体止め」とは、ほとんど同じ働きをしているように見える。文頭から文末までを一本道で読ませず、遡行を誘導する仕掛け。極月の投石水に届かざる投石水に届かざる投石水に……

水槽にかさなるいもり暮れかぬる 宮坂静生

でも、こんなのになると困る。「暮れかぬる」が水槽にかかっているのかいもりにかかっているのか、考えてみる。どっちも変なので、別に名詞が省略されているのかとも思う。こういう、「困ってしまう」連体止めは時々見かけるように思う。

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